レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を徹底解説 – 作品数、一覧、特徴など
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ダヴィンチ 画家・彫刻家・建築家本記事では、イタリア生まれの芸術家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の全作品について、豊富な写真素材を交えて可能な限り詳しく解説致します。記事の後半では、レオナルド作品展示がある各美術館も紹介致します。
レオナルド・ダ・ヴィンチとは
絵画「モナリザ」の作者として知られる「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、人類史上で最も有名な芸術家と言っても過言ではありません。
芸術面での才能は言わずもがな天才的で、同時代に活躍した「ミケランジェロ」「ラファエロ」と並んで、イタリア芸術における三大巨匠の1人に数えられています。
また、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と言う名は「ヴィンチ村のレオナルド」と言う意味になるため、専門家の間では「ダ・ヴィンチ」ではなく「レオナルド」と言う呼び名を使うのが一般的です。
「ダ・ヴィンチ」の知識や才能は芸術面に留まらず「軍事学」「解剖学」「航空力学」「天文学」「哲学」など多岐に渡りました。ミラノ滞在時代には演劇用の舞台装置まで手がけるほどの幅広さで、正に万能の天才と称されるに相応しい人物でした。
ダ・ヴィンチは「フィレンツェ」「ミラノ」「ローマ」などで活躍した後、晩年は国王「フランソワ1世」の招きでフランスの「アンボワーズ城」近くに邸宅を与えられ、そこで静かな余生を過ごしました。
そして、フランス移住からわずか3年後の1519年、ダ・ヴィンチは67年間の人生に幕を閉じます。彼は「モナリザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3作は死ぬまで手元に残し、生涯に渡り「モナリザ」に筆を入れ続けたと言われています。
ダ・ヴィンチ 生涯の作品数と作品一覧
ダ・ヴィンチが生涯で手掛けた全作品数を表す時に「10数点」と言う表現が良く用いられます。なんともはっきりしない表現ですが、これはダ・ヴィンチ作と思われる作品が世界に20点前後あり、鑑定家や専門家によってダ・ヴィンチ作か否かの判断が分かれるためです。
また、ダ・ヴィンチが弟子と共同で手掛けた作品に関しても、ダ・ヴィンチ作とするか否かについては判断が分かれる所だと思います。
では実際に何点ぐらいが一般的にダ・ヴィンチ作と言われているかと言いますと、多くの書籍や記事では13点〜16点としている場合がほとんどです。
本記事では、ダ・ヴィンチ作品として16点、それ以外のダ・ヴィンチ関連と幻の作品を4点、合計20点の作品をご紹介します。
「巌窟の聖母」と「糸車の聖母」に関しては、同じ題名と構図でそれぞれ2点(合計4点)の作品が存在しますが、同じ構図のものは2点で1点とカウントしています。作品の詳細は次項より解説いたしますが、まずは作品一覧からご覧ください。
以下、画像をクリック(タップ)すると拡大し、作名をクリックすると同ページ内の作品解説部分に移動します。
作品名 | 制作年 | サイズ | 種類 | 所蔵 |
---|---|---|---|---|
受胎告知 | 1472~1475年頃 | 98cm × 217cm | 油彩、板 | ウフィツィ美術館 |
カーネーションの聖母 | 1475年頃 | 62cm × 48cm | 油彩、板 | アルテ・ピナコテーク |
ジネヴラ・デ・ベンチの肖像 | 1478~1480年頃 | 38.1cm × 37cm | テンペラ、板 | ワシントン・ナショナルギャラリー |
ブノワの聖母 | 1478~1480年頃 | 49.5cm × 31cm | 油彩、板 | エルミタージュ美術館 |
荒野の聖ヒエロニムス | 1480~1482年頃 | 102.8cm × 73.5cm | 油彩、板 | バチカン美術館 |
東方三博士の礼拝 | 1481~1482年 | 243cm × 246cm | 油彩、板 | ウフィツィ美術館 |
岩窟の聖母 (ルーブル版) | 1483~1486年頃 | 199cm × 122cm | 油彩、板 | ルーブル美術館 |
岩窟の聖母 (ロンドン版) | 1495年〜1508年 | 189.5cm × 120cm | 油彩、板 | ロンドン・ナショナルギャラリー |
白貂を抱く貴婦人 | 1490年頃 | 54.8cm × 40.3cm | 油彩、板 | チャルトリスキ美術館 |
ラ・ベル・フェロニエール | 1490〜1497年 | 63cm × 45cm | 油彩、板 | ルーブル美術館 |
若い音楽家の肖像 | 1483〜1490年頃 | 44.7cm × 32cm | 油彩、板 | アンブロジアーナ図書館 |
最後の晩餐 | 1495〜1498年 | 63cm × 45cm | テンペラ・漆喰、壁画 | サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 |
ほつれ髪の女 | 1500〜1510年 | 25cm × 21cm | 油彩、板 | パルマ国立美術館 |
モナ・リザ | 1503年〜1519年頃 | 77cm × 53cm | 油彩、板 | ルーブル美術館 |
聖アンナと聖母子 | 1502~1516年 | 168cm × 130cm | 油彩、板 | ルーブル美術館 |
洗礼者ヨハネ | 1513~1516年頃 | 69cm × 57cm | 油彩、板 | ルーブル美術館 |
サルバトール・ムンディ(救世主) | 1507〜1508年 | 油彩、板 | アブダビ文化観光局 |
作品名 | 制作年 | サイズ | 種類 | 所蔵 |
---|---|---|---|---|
キリストの洗礼 | 1470〜1475年 | 177cm × 152cm | 油彩、板 | ウフィツィ美術館 |
糸車の聖母 (ランズダウンの聖母) | 1501〜1507年頃 | 50.2cm × 34.6cm | 油彩、板 | 個人 |
レダと白鳥 | 16世紀頃 | 不明 | 不明 | 消失 |
アンギアーリの戦い | 16世紀前半 | 不明 | 不明 | 消失 |
レオナルド・ダ・ヴィンチ全16作品の解説
本項では、レオナルド・ダ・ヴィンチ作品とされている16作品について年代の古い方から順に解説していきます。ダ・ヴィンチ作品として含むか否かの判断は、2019年〜2020年にかけてルーブルで開催されたダ・ヴィンチ展の作品表記を参考に判断しました。
受胎告知
「受胎告知」は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」がヴェロッキオ工房にいた頃の初期の作品です。元々はモンテオリヴェートのサン・バルトロメオ修道院に置かれていましたが、19世紀後半にウフィツィ美術館に移されました。
作中では「シモーネ」や「ボッティチェッリ」をはじめ多くの画家が題材としてあつかっている聖書の場面「受胎告知」が描かれています。受胎告知とは、大天使ガブリエルが降臨し、キリストをみごもった事を伝え、聖母マリアがそれを受け入れる場面の事です。
▼ 大天使ガブリエル
この時代の天使の羽は非現実的に描かれるのが常でしたが、本作ではまるで本物の鳥の羽の様に描かれています。この部分だけでも、ダ・ヴィンチのリアリズムに対する飽くなき探究心が伺えます。また、天使の近くに描かれている百合は純潔の象徴としてマリアの処女性を表しています。
▼ 聖母マリア
マリアが手を置いている書見台は、ヴェッロキオが実際に手がけた石棺をモデルに描かれています。
本作は、実質的に彼のデビュー作と言えるため、後年のダ・ヴィンチ作品と比較すると、聖母マリアの机に置かれた手や硬い表情に不自然さがあると言われています。
過去には、ダ・ヴィンチ作ではなく、ギルランダイオ作とする意見も多くありましたが、現在は、X線写真の判定によって、ダ・ヴィンチ作と言う結論で落ち着いています。
受胎告知の詳細については以下の記事で詳細に解説しております。
カーネーションの聖母
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聖母マリアが左手にもつカーネーションから「カーネーションの聖母」と呼ばれる本作は、ダ・ヴィンチが受胎告知とほぼ同時期に描いた初期作品の一つです。
ただし本作に関しては、レオナルドの単独作品ではなく、ヴェロッキオ工房の同僚たちの手が部分的に加わっていると言うのが通説になっています。また、それ以前は、ダ・ヴィンチの師である「ヴェロッキオ」の作品と考えられていた事もありました。
作中では聖母マリアが、膝に乗せた幼な子イエスを見つめながら座っています。ダ・ヴィンチの後期に描かれたマリアと比べると、どこか柔らかみに欠け、機械的な印象を受けます。
聖母の髪、左手、飾り布、そして花などは、レオナルドの受胎告知と非常によく似ています。現在この「カーネーションの聖母」は、ミュンヘンにある「アルテ・ピナコテーク」に展示されています。
ジネヴラ・デ・ベンチの肖像
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作中のモデルは、大商人でメディチ家との関わりも深かったアメリゴ・デ・ベンチの娘「ジネヴラ」です。ジネヴラは、メディチ家主催のサロンにも頻繁に顔を出しており、美と教養を兼ね備えた女性として知られていました。
絵画の起源に関しては諸説ありますが、16歳のシネベラが、商人の「ルイジ・ディ・ベルナルド」に嫁ぐ際に描かれたという説が広く知られています。
本作は下部分が切り取られてしまっており、どことなくアンバランスに感じます。切り取られた部分には、きっと美しい手の描写が描かれていたに違いありません。実際にその部分を描いたと思われるダ・ヴィンチの素描が残されています。
作中のモデル「ジネヴラ」の表情がどこか不機嫌にも見えますが、結婚を目前に不安を感じているジネヴラの気持ちを、ダ・ヴィンチが投影したのでしょうか。
背景に目を向けると、ヒノキ科ビャクシン属の針葉樹「セイヨウネズ(西洋杜松)」が描かれています。セイヨウネズはイタリア語で「ginepro(ジネプロ)」を意味しており、モデル名「ジネヴラ」との語呂合わせで描かれています。当時はモデル名と語呂を合わせた何かを作中に描く事が良くありました。
また、絵画の裏面には月桂樹と棕櫚(ジェロ)で構成されたエンブレムと、”VIRTVTEM FORMA DECORAT”と言う文字が記されています。
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この文字はラテン語で「美は徳を飾る」と言う意味で、ジネヴラが知性と徳を兼ね備えた人物であることを表現しています。
現在、本作はワシントンのナショナルギャラリーに展示されています。
ブノワの聖母
別名「花と聖母子」とも言われるこの作品は、レオナルドがヴェロッキオ工房から独立する前に手がけた最後の作品です。「ブノアの聖母」という作名は、20世紀前半にロシアの建築家「レオン・ブノア」が本作を所蔵していた事に由来しています。
本作は1914年よりロシアのサンクトペテルブルク エルミタージュ美術館の所蔵品となっていますが、下絵となった習作2点は大英博物館に展示されています。習作とは、練習用のスケッチの様なものです。
作中では、聖母マリアが赤子のイエスとたわむれる姿が描かれています。
聖母マリアは15世紀の典型的なフィレンツェ ファッションに身を包み、椅子に座るイエスの視線を花へと導いています。
ダ・ヴィンチはこの時期に、同じく聖母をテーマとした「カーネーションを持つ聖母」という作品も残しており、そちらはドイツ ミュンヘンの「アルテ・ピナコテーク」に展示されています。
本作は後年の画家達に多大な影響を与えており、ラファエロも同じ構図で『カーネーションの聖母』という作品を残しています。
荒野の聖ヒエロニムス
荒野の聖ヒエロニムスは、ダ・ヴィンチの1480年頃の作品で、木製パネルにモノクロの下書きのまま未完となっています。キリスト教の聖職者である「聖ヒエロニムス」は、4世紀に実在した人物で、聖書をラテン語に訳した事で知られています。
作中では、荒野の洞窟で苦行をするヒエロニムスと、彼が棘を抜いて助けたとされるライオンが描かれています。伝説によれば、ヒエロニムスは性的な欲望に打ち勝つために、自ら胸を石で打ちつけたとされています。作中で右手に石を握っているのはそのためです。
ダ・ヴィンチの死後、詳しい日付や期間は分かりませんが、現在の状態に復元されるまで、絵画は五つに分断された状態でした。胴体が描かれた部分は、ローマの古道具屋の工房で家具の扉にされていたと言うエピソードもあるほどです。
現在、本作はバチカン美術館のピナコテカ(絵画館)で鑑賞する事ができます。荒野の聖ヒエロニムスの詳細については以下の記事で詳細に解説しております。
東方三博士の礼拝
本作は、フィレンツェ郊外の聖アゴスティーノ修道院が、レオナルドの父親づてに制作を依頼をした絵画です。
しかし、制作報酬が土地であったり、画材などの必要経費も全てレオナルド持ちであるなど、契約内容はお世辞にも条件が良いと言えるものではありませんでした。
案の定、制作段階で経費的な問題が発生し、作業を継続する事は難しくなりました。
更に一説では、レオナルドのセオリーを無視した斬新な構図の「東方三博士の礼拝」に修道院側が及び腰になったとも言われています。
結局、本作は未完のまま、レオナルドは拠点をミラノに移してしまいます。書きかけの「東方三博士の礼拝」は、友人の「ジョヴァンニ・デ・ベンチ」に預けられました。この人物は、レオナルドが手掛けた肖像画のモデル「ジネヴラ」の兄弟にあたる人物です。
本作の主題である新約聖書の物語「東方三博士の礼拝」は、東方よりベツレヘムの星に導かれてやってきた三博士(ガスパール、メルキオール、バルタザール)が、聖母が抱く幼子イエスに礼拝する場面を描いた作品です。レオナルドの絵画に多く見られる「ぼかし画法」によって、人や物、空間が見事に融合しています。未完のため完成形が見れないのが非常に残念です。
作中で真っ先に目に入る中央の女性が聖母マリアで、幼子イエスを抱いて座っています。
マリアの背後で壺の蓋を持っているのがイエスの養父「ヨセフ」、木に隠れる様に指を天に向けているのが「洗礼者ヨハネ」です。
更にヨハネの右手側をよく見ると、複数の馬の頭が下絵で描かれているのが分かります。これは、ダ・ヴィンチがバランスの良い配置を試行錯誤していた痕跡で、この部分からも彼のこだわりの強さが伺えます。
絵画の右下で黒い甲冑を着ているのは、若き日のレオナルド・ダ・ヴィンチ自身を描いたと言われています。
ダ・ヴィンチの左手側でひざまずいて乳香をイエスに手渡しているのは三博士の一人「バルタザール(画像上)」です。残りの2人の博士は絵画の左下側に描かれています。
手前で見上げるポーズをしているのが「メルキオール」、その少し奥でひれ伏しているのが「バルタザール」です。新約聖書では、バルタザールが神性の象徴である「乳香」を、ガスパールが死の象徴である「没薬」を、メルキオールが王権の象徴である「黄金」を手渡したとされています。
また、「メルキオール」の左手側で立っている人物は、老いたダ・ヴィンチ自身を描いたのではないかと言われています。
「東方三博士の礼拝」は、メディチ家が所有していた後に、1670年よりウフィツィ美術館の所蔵となりました。2011年~17年にかけては、後世に加筆された部分の除去や大々的な修復が行われ、2017年3月より再びウフィツィ美術館に展示されています。
岩窟の聖母(ルーブル版)
巌窟の聖母は、ダ・ヴィンチが30代の時に描いた傑作と言われる多翼祭壇画の一部です。1483年にミラノ信心会が、サン・フランチェスコ・グランデ教会の礼拝堂に飾るため、ダ・ヴィンチに制作を依頼しました。
作中では、まだ幼児のイエス・キリスト(右手側)が右手を上げ、洗礼者ヨハネ(左手側)に祝福を与える瞬間が描かれています。イエスとヨハネの見分けがつきにくいため、逆に紹介している書籍なども結構あります。
中央で左腕を伸ばしているのがイエスの母「聖母マリア」、右側の女性は「大天使ウリエル」か「大天使ガブリエル」のいずれかであるとされています。
通常、洗礼や祝福を表現する宗教画は、光に包まれた明るい風景の中で描かれるのがほとんどです。しかし本作は、洞窟という暗がりの中に描かれており、わずかに洞窟の入口から薄明かりが差し込んでいます。
ダ・ヴィンチは、女性の子宮を象徴するとされる洞窟を描く事で、マリアが処女のままイエスを身籠った事を暗示しているそうです。
後年にダ・ヴィンチは、この「岩窟の聖母」と全く同じ構図と作名で別バージョン(ロンドン ナショナルギャラリー所蔵)を作成しています。
何故ただでさえ作品を完成させない事で知られるダ・ヴィンチが、岩窟の聖母を2作も描いたかについては諸説語られていますが、依頼者の「ミラノ信心会」が最初に描いた岩窟の聖母(ルーブル版)を気に入らなかったためだと言われています。
気に入らなかった理由として「イエスとマリアという聖なる存在を暗がりに描いた」「神的人物の頭上に光輪(金色の輪)が描かれていない」「イエスとヨハネの区別が明確でない」「イエスとヨハネを同格に描いている」などがあげられます。
そのため、新たに製作された「岩窟の聖母(ロンドン版)」では、上記の全ての部分が修正されています。この辺りを意識して見比べてみると非常に面白いと思います。
岩窟の聖母(ロンドン版)
既に制作意欲を失っていたダ・ヴィンチは、別バージョンの「岩窟の聖母(ロンドン版)」の方は共同制作者の「デ・プレディス兄弟」にほぼ任せたと言われています。
また「岩窟の聖母(ルーブル版)」に関しても、ダ・ヴィンチ主導の元で、デ・プレディス兄弟と共同で手がけたというのが近年の有力な見解の様です。しかし、ルーブル美術館の展示では「ダ・ヴィンチ作」と記されているのみでしたので、本記事もそれに準じてダ・ヴィンチ作としております。
白貂を抱く貴婦人
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「白貂を抱く貴婦人」は、ダ・ヴィンチがミラノ公「イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ)」に仕えていた1489〜91年頃に描かれた作品です。本作のモデルについては諸説ありますが、ミラノ公「イル・モーロ」の愛人だった「チェチリア・ガッレラーニ」である言う説でほぼ間違いないとされています。
作中でモデルが抱えている動物は「白貂(しろてん)」で、ギリシャ語では「ガレー」と呼ばれます。これは、モデルの苗字「ガッレラーニ」に掛けて描かれています。また、貂は「純潔と節制」のシンボルとされているほか、イル・モーロの紋章のモチーフの一つでもあります。
ダ・ヴィンチは本作を含めて、女性の肖像画を4枚描いており、他には「モナリサ」「ラ・ベル・フェロニエール」「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」の3枚があります。このうちの2枚、本作と「ラ・ベル・フェロニエール」は、同じ木からとれたクルミの板に描かれている可能性が高いと、21世紀の美術史家「フランク・ツェルナー(ドイツ)」は述べています。
絵画の消息に関しては、モデルである「チェチリア」自身が所有した後、彼女の死後数世紀は正確な記録が残っていません。ある程度正確な記録が確認できるのは、18世紀後半以降で、1798年にポーランドのチャルトリスキ公爵家の子息「アダム・イェジ・チャリトリスキ」によって本作は購入されています。
その後、1939年にナチスドイツに略奪されてしまいますが、終戦後に連合軍によって取り戻され、現在はクラクフのチャルトリスキ美術館に展示されています。チャルトリスキ美術館は、18世紀に「白貂を抱く貴婦人」を購入した一族の末裔「アダム・カロル・チャルトリスキ公爵」がオーナーを務める私立美術館です。
ラ・ベル・フェロニエール
モナ・リザより前に制作された正にモナ・リザの原型とも言える作品。研究者の間では、ダ・ヴィンチ作品ではないと言う意見も根強かったため、一時期ルーブルもその可能性を認めていました。しかし、現在はダ・ヴィンチの真筆でという結論で概ね一致しています。
絵のモデルに関しては、ミラノ公イル・モーロの寵愛を受けた愛人「ルクレツィア・クリヴェッリ」であるという説が最も有力です。しかし製作年と年齢が合わないなどの指摘もあり、確定には至っていません。他にも、ミラノ公の愛妾だった「チェチーリア・ガッレラーニ」であると言う説や、ミラノ公の正妻「ベアトリーチェ・デステ」であると言う説など、諸説語られています。
作名の一部である「フェロニエール」とは、モデルが身につけている細い金の頭飾りの事で、フランス王「フランソワ一世」の愛人フェロン夫人の名からとられています。
本作の所蔵は、フランソワ一世、ルイ14世など、一度もフランス王室のコレクションから出る事なく、ルーブル美術館の所蔵作品となりました。
2015年には修復作業も行われ、2017年にUAEにあるルーヴルの姉妹館「ルーブル・アブダビ」に貸し出しも行われました。現在はパリ ルーブルでの常設展示作品として鑑賞する事ができます。
若い音楽家の肖像
ダ・ヴィンチ唯一の男性肖像画であるこの絵画は、イタリア ミラノにあるアンブロジアーナ図書館の所蔵作品です。
絵画は1905年に行われた修復によって、右下部分から、それまで隠れていた右手と楽譜が現れ、作中のモデルが音楽家である事が判明しました。
鑑定家で最後の晩餐の修復責任者も務めた「ピエトロ・マラーニ」によれば、作中のモデルは、レオナルドに同行してミラノにやってきた音楽家「アタランテ・ミリオロテッイ(フィレンツェ出身)」であるとされています。
しかし、肖像画のモデルに関しては、ミラノ公「イル・モーロ」であると言う説や、ミラノ大聖堂の聖歌隊長「フランキーノ・ガッフリーオ」であると言う説など、諸説語られています。
また、本作は未完であるため、顔と髪は詳細に描かれていますが、首から下の部分は立体感のないまま描きかけとなっています。
本作は、レオナルドと工房の共作、もしくは彼の作品ではないと言う説も未だに根強く残っています。書籍などでもレオナルド作品ではないと書かれているものがかなり多いです。
しかし、ルーブル美術館に期間限定で展示された際に「ダ・ヴィンチ作」として紹介されていたので、そちらに合わせてレオナルド・ダ・ヴィンチの単独作品としてご紹介しております。
最後の晩餐
おおよそ縦4.5m × 横9m ほどの大きさを誇る「最後の晩餐」は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)の食堂に描かれた巨大壁画です。
レオナルド・ダ・ヴィンチが43才の時に、1495年から1498年にかけて制作しました。
作中では「ペサハ(過越祭)」と呼ばれるユダヤ教のお祝いの日に《この中に裏切り者がいる。私と同時に食べ物を鉢に浸した人物がその人だ。》というイエス・キリストの発言を巡って、12使徒たちが混乱、動揺、反応する様子が描かれています。ご存じかと思いますが、イエスを裏切ったのは12使徒の一人「イスカリオテのユダ」と呼ばれる人物です。
本作は極端な遠近法法で描かれており、部屋から壁の奥に向かって実際に広がっている様に見えます。ダ・ヴィンチはこの遠近法の構図を描くため、イエスのこめかみ付近に釘を打って中心点とし、そこを中心に直線をひきました。下写真の様なイメージです。
遠近法の中心点の釘後は、修復の際に発見されました。
絵の中央は「イエス・キリスト」で、向かって左側の人物は、弟子の中でイエスに最も信頼されていたと言われる「ヨハネ」です。イエスに洗礼をほどこした「洗礼者ヨハネ」とよく混同されますが別人です。
「ヨハネ」の横で身を引くような体勢で、右手に袋を握っている男が裏切り者の「ユダ」です。
ユダの横で身を乗り出し右手にナイフを持つのが、サン・ピエトロ大聖堂入口の巨大像でも有名な「ペトロ」です。
最後の晩餐の見学エリアには、人物の位置と名前を記したボードがありますので、絵を見ながら人物名と配置を確認できます。
最後の晩餐の詳細については以下の記事で更に詳細に解説しております。
ほつれ髪の女
「ほつれ髪の女」は、イタリア パルマ国立美術館に所蔵されているダ・ヴィンチの未完の作品です。1826年にイタリア画家「ガエターノ・カラニ」の美術コレクションが、パルマ国立美術館に売却された際に、本作が存在していたという記録だけが残っています。
絵画は、ポプラの木のパネルに「油」「鉛白(白い鉛の顔料)」「アンバー(土に由来する褐色の無機顔料)」などで描かれています。
一般的には、女性の髪のイメージから「ほつれ髪の女」と呼ばれる本作ですが、正式名称はなく、世界中で様々な呼び名で呼ばれています。
本作に関しては制作の経緯はもちろん、描きかけの作品なのか、下絵なのかさえ、何一つ確定的な事が分かっていません。一枚の作品としてカウントしてよいかも微妙な所です。
また、ダ・ヴィンチ作ではなく彼の生徒の作品と言う説や、ダ・ヴィンチの幻の作品「レダと白鳥」の研究用に描かれたと言う説、前所有者の「ガエターノ・カラニ」が偽造した説など諸説語られています。
参考までに、ルーブル美術館展示の際はレオナルド・ダ・ヴィンチの単独作として紹介されていました。彼の単独作品ではない場合のルーブルの絵画タグ表記は「レオナルド・ダ・ヴィンチ工房」や「レオナルド・ダ・ヴィンチと工房」という風に紹介されます。実際、この表記の違いにそこまで深い意味はないかもしれませんが、本記事ではこれに倣ってレオナルド作品としてカウントしております。
2012年には日本に貸し出しも行われ、東京渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムに期間限定で展示されました。
モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)
本作の英語名である「Mona Lisa(モナ・リザ)」は「リザ夫人」、フランス名の「La Joconde(ラ・ジョコンダ)」は「ジョコンダ夫人」と言う意味で、どちらも「リザ・ゲラルディーニ(リザ・デル・ジョコンダ)」という女性の事をさします。
このリザ夫人こと「リザ・ゲラルディーニ」は、フィレンツェの富豪「フランチェスコ・デル・ジョコンダ」の妻で、長年本作のモデルと目されている人物です。
ただし、本作のモデルに関しては諸説語られており、ダ・ヴィンチの母であると言う説や、ダ・ヴィンチ自身を描いたと言う説まで様々です。
「モナ・リザ」に関する記録は少なく、製作年は1503年頃、注文者は「ジュリアーノ・デ・メディチ」であると言うのが、一つの有力な見解となっています。
レオナルドはこのモナ・リザを描きあげるために、彼独自の絵画技法「スフマート」を多用しました。「スフマート」とは、薄い絵の具を何層も重ね、塗った部分を指の腹でこすってぼかし、輪郭線を陰影のみで表現する技法の事です。最新技術で分析すると「モナ・リザ」には、最大で15層も塗り重ねられた部分があったそうです。
モナ・リザは、レオナルドが生涯手元から離さず手を入れ続けた作品のため、未完であるとも言われています。
彼の死後は、遺言により弟子の「メルツィ」が相続した後、本作を切望したフランス王「フランソワ一世」によって買い上げられます。
その後、17〜18世紀後期のルイ13世〜15世時代までは、ヴェルサイユ宮殿に飾られ、ナポレオン時代にはチュイルリー宮殿の寝室に飾られていました。現在の展示場所であるルーブル美術館の所蔵となったのは、19世紀初期の事です。
本記事では「モナ・リザ」の概要だけを記載致しましたが、詳細に関しては、以下の記事にて解説しております。
聖アンナと聖母子
この「聖アンナと聖母子」は、ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」「洗礼者ヨハネ」と共に手元に残し、生涯手を入れ続けたとされる未完の大作です。
もともと本作は、フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の祭壇画として依頼されたものでした。しかし未完のままダ・ヴィンチの手元に残ったとされています。
作中では、キリストの家族の3世代、聖アンナ(マリアの母)、聖母マリア(イエスの母)、イエスの姿が描かれています。聖アンナの膝に座わる聖母マリアは、子羊からイエスを優しく引き戻そうとしています。
子羊はキリストの受難の象徴とされており、子供を守る母マリアの直感的な行動が読み取れます。優しい表情で娘と孫を見つめる「聖アンナ」の顔と、マリアの右足は描きかけのままとなっています。
また、本作「聖アンナと聖母子」には、似た様な構図で描かれた「バーリントン・ハウス・カルトン(画像下)」と呼ばれる下絵も存在しています。
ドローイングという線画で描く絵画手法によって、木炭と白黒のチョークで描かれています。現在この下絵はロンドンのナショナルギャラリーに展示されています。
伝記作家のヴァザーリの記録によれば、「聖アンナと聖母子」の下絵が数日間フィレンツェで公開された際に、多くの人が見学に訪れたそうです。ただし、ここでヴァザーリが言う下絵が、「バーリントン・ハウス・カルトン」を指すかについては、専門家の間でも意見が別れています。むしろ正式な下絵は既に消失して現存していないというのが有力な見解となっています。
洗礼者ヨハネ
洗礼者ヨハネは、レオナルドがローマのバチカンに滞在していた頃に製作を開始した作品です。
ダ・ヴィンチは1519年にこの世を去ったため本作は未完となりました。実質的に遺作となった本作には、ダ・ヴィンチが生涯で築き上げた技術の忰がつぎこまれています。
毛皮に身を包むヨハネの指は天を差し、救世主イエスの誕生を告げています。右手は暗がりで見えにくいですが「杖状の細長い十字架」を胸に抱え込む様に持っています。
まるでモナ・リザの様に微笑む洗礼者ヨハネのモデルは、ダ・ヴィンチの弟子「サライ」だと言われています。参考までに下画像はダ・ヴィンチの弟子が描いたサライの肖像画です。
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サライは芸術家としては凡庸で、度々ダ・ヴィンチの金銭をくすねる様な粗野な人物でした。彼の盗み癖については、ダヴィンチが残した文章に金額や日付まで細かく記されています。また「サライ」という名は小悪魔を意味する通称で、本名は「ジャン・ジャコモ・カプロッティ」と言い、外見は美形であったと伝わっています。彼はダ・ヴィンチという天才の寵愛を受けながら、期待に応えられない自身の凡庸さに苦しみ、ローマ滞在時(フランス滞在時という説も)に自らダ・ヴィンチの元を去ったとされています。
本作「救世主」はダ・ヴィンチの死後、イングランド王「チャールズ1世」や、フランス国王「ルイ14世」など、名だたる人物が所有しましたが、フランス革命以後にルーブル美術館の所蔵となりました。
サルバトール・ムンディ(救世主)
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救世主はローブをまとったイエス・キリストの姿を描いた作品で、サルバトール・ムンディはラテン語で「救世主」を意味しています。発見された当初は絵に傷が入っている状態でしたが、近年の修復により製作当時の美しい姿を取り戻しました。
参考までに、上の色が淡いバージョンが恐らく「レオナルド」作であろうとされている本物で、レオナルドの指導の下で弟子たちが製作した別バージョン(画像下)も存在しています。
こちらは2019年12月〜2021年1月頃まで行われたルーブルのダ・ヴィンチ展で公開され際に撮影したもので、19世紀のフランス貴族で芸術家でもあった「マークイス・デ・ガネー・エティエンヌ」が所有していた事から「ガネー版(The Ganay version)」と呼ばれています。写真素材がたくさんあるので、本作の説明はこちらの画像パーツを使用致しますが、これ以降の説明は全てオリジナルに関する内容です。
作中でイエス・キリストが交差する右手の指はキリスト教における十字架を表し、左手には地球を表す水晶を持っています。
本作は2005年頃までは、オリジナルの複製と認識されていたため、数百万円ほどの価値でした。しかし、21世紀に入り真作であるとの見方が強くなり、価値が一気に上昇しました。
2017年11月には、ニューヨークで開催されたクリスティーズのオークションにも出品され、芸術作品としては史上最高額の510億で落札されました。
当時、落札者が公表されなかったことから、個人資産家の落札と考えられていましたが、2017年にアブダビ文化観光局が獲得したと公式に発表しました。
このオリジナルの「サルバトール・ムンディ(救世主)」は、2017年からルーブル・アブダビに展示される予定でしたが、展示は無期限で延期となっています。
レオナルド・ダ・ヴィンチ関連と幻の作品
本項では、レオナルドが絵画の一部だけを手がけた作品や、存在自体が幻となっている作品、他者や工房との共作として紹介されている作品などをご紹介します。
キリストの洗礼
本作は、パレスチナのヨルダン川で、ヨハネがキリストに洗礼をほどこすと言う聖書の有名な一場面を描いた作品です。
1472年から75年にかけてフィレンツェのサン・サルヴィ修道院の依頼で「ヴェロッキオ」などによって制作され、1919年からウフィツィ美術館に所属されています。
ヴェロッキオは15世紀後半に、フィレンツェで大規模な工房を運営していた彫刻家、金細工職人、画家だった人物です。彼の工房からは多くの優秀な画家を輩出しています。
当時ヴェロッキオ工房に所属していた若き日のダ・ヴィンチも、助手として左側の天使一人と背景の一部を手掛けました(描いた箇所には諸説あります)。
本作には様々なエピソードがあります。最も有名なのが、ダ・ヴィンチが描く天使のクオリティの高さに衝撃を受けた師匠のヴェロッキオは絵画制作をやめ、以後の制作は彫刻などが中心になったというものです。また、作中の右側天使と洗礼者ヨハネに関してはボッティチェリが手がけたという説もあります。
糸車の聖母(ランズダウンの聖母)
「糸車の聖母」は、アメリカの個人が所蔵する作品で、19世紀にランズダウン侯爵家が所有していたことから「ランズダウンの聖母」とも呼ばれます。
本作には、同じ構図で後年に描かれた「バクルーの聖母」と言う作品もあり、こちらはスコットランド国立美術館に展示されています。
二作共にダ・ヴィンチが関与した作品であると考えられています。
まず「バクルーの聖母」は、細かい髪の表現などがダ・ヴィンチの筆を彷彿させますが、明らかに顔のバランスが悪く、部分的にダ・ヴィンチが手掛け、それ以外は彼の工房が手がけたと言う説が有力となっています。
一方、「ランズタウンの聖母」に関しては「モナ・リザ」との共通点も多く、透き通る肌の表現や美しい背景の綿密な描写などから、ダ・ヴィンチ作であることが期待されています。
少なくとも、1501年にレオナルドの元を訪問した「ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラ神父」が、マントバの侯爵夫人「イザベラ・デステ」に宛てた手紙(報告書)から、「糸車の聖母」をテーマにした作品にダ・ヴィンチが取り組んでいた事は間違いありません。依頼主がルイ12世の秘書「フロリモン・ロベルテ」であった事も手紙にはっきりと記されています。
ただし、手紙には絵画中に「糸」と「籠(かご)」の存在が記されており、真作として期待される「ランズタウンの聖母」にそれらは描かれていません。
この矛盾を覆したのが、最新技術を用いた近年の鑑定です。赤外線を用いて「ランズタウンの聖母」の下絵だけを写し出したところ、表面の色絵には見られなかった「糸」と「籠(かご)」の存在が明らかになりました。
更にエックス線を用いた鑑定では、ダ・ヴィンチ絵画特有の層の重なりが確認され、本作がダヴィンチ作と言う機運は一気に高まりました。
しかし、「ランズダウンの聖母」に関しては専門家の間でも意見が分かれ、完全なダ・ヴィンチ単独作品と結論づけるには、まだまだ慎重な検討が必要な様です。現時点では、ダ・ヴィンチと彼の工房との共作と言うのが有力説となっています。もちろん、ダ・ヴィンチ単独作品の可能性も消えたわけではありません。参考までに、ルーブル美術館で行われた「ダ・ヴィンチ展」でも、作者表記は、ダ・ヴィンチと工房の共作となっていました。
作中の聖母マリアは、やや体をひねる様な体勢で岩場に腰掛け、左手でイエスを抱いています。
イエスが熱心に見つめる糸巻き棒は、彼が将来、磔刑に処せられる十字架の形をしています。十字架の中心をさす赤子の指は、まるで何かを予兆している様です。
糸巻き棒は「家事労働」の象徴として聖母マリアと共によく描かれるモチーフです。これによりマリアの「よき家庭婦人」としての一面を表現しているそうです。
我が子を見つめるマリアの表情も、未来の息子の受難を案じているかの様でどこか不安気に見えます。
レダと白鳥
この「レダと白鳥」はレオナルドの幻の絵画とも言える作品で、現存する彩色画が残っているわけでも、確実に本作をレオナルドが描いたと立証する根拠がある訳でもありません。あくまでも過去の手紙や文献、残されたダ・ヴィンチの下絵などから、恐らく存在したであろうと推測されている作品です。
事実、ダ・ヴィンチの弟子やダ・ヴィンチ派と言われる画家たちが、ほぼ同じ構図で「レダと白鳥」をテーマした作品を数点残しています。つまり、似たような構図の絵画が数点存在するからには、一枚のオリジナルが必ずあるはずと言う訳です。
残された資料からも、ダ・ヴィンチが「レダと白鳥」と言うテーマに興味を持っていたと言う事はほぼ確実視されています。
参考までに、ルーブルのダ・ヴィンチ展で配布されていた解説書には、レオナルドが描いたオリジナルの「レダと白鳥」は17世紀に失われたと記載されています。
本記事で掲載している「レダと白鳥」の写真は、ダ・ヴィンチ工房のレオナルド以外の誰かが手がけたものです。こちらはフィレンツェのウフィツィ美術館に常設展示されています。
アンギアーリの戦い
「アンギアーリの戦い」は上でご紹介した「レダと白鳥」と同様に、ダ・ヴィンチが恐らく手がけたであろうと考えられている壁画で、上の写真はその未完の壁画が残っていた時代に別の画家によって模写されたものです。
他にも本作の模写はいくつか残されており、その中でも「ピーテル・パウル・ルーベンス」による模写のデッサン(画像下)が最もダ・ヴィンチの壁画を忠実に再現していると言われています。
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元々「アンギアーリの戦い」は、レオナルドがミラノから再び故郷のフィレンツェに帰還した後の1504年に「ヴェッキオ宮殿」の「500人広間(画像下)」を飾る壁画としてフィレンツェ共和国に依頼されたものです。
一方、同じ広間の対面の壁には、既に「ダビデ像」を完成させ新時代の天才として名を馳せていた「ミケランジェロ」が「カスチーナの戦い」をテーマに壁画を描く様に依頼されました。
事実上、ダヴィンチ VS ミケランジェロの様相を呈したこの新旧天才対決は、フィレンツェで大きな話題となり、注目を集めていました。
しかし、この2人の世紀の対決に決着がつく事はありませんでした。
まず最初に、壁画製作に着手したダ・ヴィンチでしたが、下絵に色ぬりをする段階で壁画上部の絵の具が溶け出してしまい、早々に製作を断念してしまいます。
これは「油絵」で描いた直後に、大量の薪(まき)をくべた高音の火で乾かすという新技法を試した事による失敗でした。ダ・ヴィンチはこの新技法のノウハウをプリニウスがローマ時代に記した書物から得ていましたが、一説ではその書籍には《この技法は壁画には向かない》とも記されており、ダ・ヴィンチはその部分を見落としていたと言われています。
経緯はどうあれ、この失敗以後、ダ・ヴィンチは本作に二度と筆を入れる事はありませんでした。
一方、ミケランジェロも壁画の下絵を完成させた段階で、「教皇ユリウス2世の墓」を手がけるためにローマに召集されてしまい製作を断念します。この時残されたミケランジェロの壁画の下絵は、その出来栄えと才能に嫉妬した「バルトロメオ・バンディネッリ」によって切り刻まれてしまったと伝わっています。
ミケランジェロの壁画内容については、辛うじて、フィレンツェの芸術家「サンガッロ」が、模写デッサン(画像下)したものだけが残っています。
そして現在、両雄の未完の壁画の上には「ヴァザーリ」作の「シエナ攻略」と「ピサ攻略」をテーマーにした壁画が描かれおり、その壁面の下には、かなりの高確率でダ・ヴィンチの未完の壁画が眠っていると考えられています。
【シエナ攻略(一部分)】
近年のX線調査により、ヴァザーリの壁画の下にダ・ヴィンチの壁画の存在を示す大きな痕跡は確認されてこそいますが、未だ100%の確証は得ていません。こういった経緯もあり、「アンギアーリの戦い」はダ・ヴィンチの幻の未完作品となっています。
作品のテーマとなっている「アンギアーリの戦い」は、15世紀半ばにトスカーナ地方のアンギアーリでフィレンツェ共和国とミラノ公国の間で起こった戦争の事で、この時はフィレンツェ共和国が見事に勝利を収めています。
「アンギアーリの戦い」が起こったのは、ダ・ヴィンチの生前であったため、当時を知る年長者の話をメモしながら作品製作にあたったと言われています。また、後年のヴァザーリが記した資料によると、ダ・ヴィンチは本作を「軍旗争奪」をテーマに描いたとされ、実際にダ・ヴィンチが手がけた部分的なデッサンや下絵などは現在も残されています。
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批評家の間では、本作のダ・ヴィンチの人物像は彼らしくない人口的で不自然であると言う指摘がなされていますが、これはミケランジェロを筆頭とする新進気鋭の画家達の作風に対抗して、敢えてその様にしたのではないかと言われています。この時のダ・ヴィンチはすでに50歳を超えており、世の中的には既に過去の巨匠となりつつありました。
ダ・ヴィンチ作品を所蔵する美術館と教会
本項では実際にレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が鑑賞可能な美術館、教会、図書館などをご紹介致します。
ルーブル美術館
フランス パリの中心部に位置する「ルーブル美術館」は、16世紀中頃に国王フランソワ1世が、ダ・ヴィンチやラファエロなど、数々の名画を収集したのが起源となっています。
ルーブルは、レオナルドの作品を最も多く所蔵する美術館で「モナリザ」「巌窟の聖母(ルーブル版)」「聖アンナと聖母子」「ラ・ベル・フェロニエール」「洗礼者ヨハネ」の5点を鑑賞する事ができます。他でレオナルド作品を3点以上展示している美術館はなく、一カ所で5点ものダ・ヴィンチ作品を鑑賞できるのはこのルーブルだけです。
- ▶ ルーブル美術館とは? 見学のヒントと観光の基本情報
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ウフィツィ美術館
ウフィツィ美術館は、イタリア フィレンツェの中心部に位置する美術館です。フィレンツェ中心部のホテルにさえ宿泊していれば、ほぼ徒歩10分圏内で本美術館にアクセス可能です。
ウフィツィ美術館は、16世紀後半にトスカーナ大公「フランチェスコ1世」が、自身や歴代メディチ家当主の膨大な美術品を一般に公開するため、現在の建物をギャラリーとして改築したのが一つの起源となっています。
ウフィツィ美術館では、ダ・ヴィンチ作品2点「受胎告知」「東方三博士の礼拝」と、ヴェッロキオとダ・ヴィンチの共作「キリストの洗礼」を鑑賞する事ができます。他にも、ミケランジェロやラファエロなど、イタリア ルネサンス最盛期に活躍した画家の名画が数多く展示されています。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
モナ・リザと双璧を成すダ・ヴィンチの大作「最後の晩餐」は、美術館ではなく、ミラノにある「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」で見学する事ができます。ただし、最後の晩餐の見学は少人数グループの完全予約制となっており、一般公開されているレオナルド作品としては、最も鑑賞難易度が高い作品と言えます。
しかも「最後の晩餐」は教会に隣接する食堂の壁に描かれた壁画のため、他の作品の様に日本に持ち込まれたり、有名美術館で期間限定で展示される事も恐らくはないと思います。本物を見るためには、予約の上でこの教会に足を運ぶ以外に方法はありません。以下の参考記事にて予約方法や見学の様子などを詳しく紹介しております。
- ▶ 最後の晩餐 チケット予約方法と予約を取るコツを徹底解説
- ▶ 最後の晩餐 見学ガイド – チケット引き換え、入場方法、見どころ、所要時間、行き方
- ▶ 最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)を分かりやすく解説
- ▶ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を徹底解説 – 歴史、営業時間、見どころなど
バチカン美術館
世界最小国家のバチカン市国にある「バチカン美術館」には、1点のダ・ヴィンチ作品「聖ヒエロニムス」が展示されています。
バチカン美術館は総面積5万㎡、見学可能部屋数1,000以上を誇り、迷路の様に入り組む美術館内には、歴代ローマ教皇が収集したコレクションを中心に、数々の名作が一堂に会しています。
中でも、ミケランジェロの「最後の審判」と、ラファエロが人生の大半を捧げた「ラファエロの間」は必見です。ダ・ヴィンチの「聖ヒエロニムス」は、バチカン美術館内の絵画館(ピナコテカ)にて鑑賞可能です。
アクセスも、イタリアのローマ駅から、地下鉄と徒歩で15分~20分ほどです。
- ▶ バチカン美術館 予約から入場まで徹底解説
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エルミタージュ美術館
エルミタージュ美術館は、ロシアのサンクトペテルブルクにある国立美術館で、1990年には世界遺産にも登録されています。1764年にエカチェリーナ2世がドイツの画商ゴツコフスキーの美術コレクションを買い取ったのが本美術館の起源です。
この場所では、ダ・ヴィンチ作品の1点「ブノワの聖母」を鑑賞する事ができます。他にも、ラファエロの「コネスタビレの聖母」をはじめ、カラバッジョやティツィアーノ、ゴヤ、エル・グレコ、ゴッホ、モネ、ゴーギャンなど、国立美術館ならではの豊富なラインナップを誇ります。
立地的にも地下鉄で手軽にアクセス可能で「Admiral Chase Kaya駅」から徒歩3分、「ネフスキー・プロスペクト駅」からは徒歩10分ほどです。
ワシントン ナショナルギャラリー
ワシントン ナショナルギャラリーこと「ナショナル・ギャラリー・オブ・アート」は、アメリカ ワシントン州にある国立美術館です。
1937年に銀行家アンドリュー・メロンの基金と彼の美術コレクションが政府に寄贈された事が、本美術館の起源となっています。この場所ではダ・ヴィンチ作品の一点「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」を鑑賞する事ができます。
他にもラファエロの「アルバの聖母」や、フィリッポ・リッピの「東方三博士の礼拝」をはじめ、フェルメール、ゴッホ、マネ、モネ、ゴーギャンなど、有名美術家たちの名作揃いです。
この規模の美術館としては異例の入場無料で、立地的にも、複数のメトロレール駅に隣接するため手軽にアクセスできます。最寄り駅の「Archives–Navy Memorial–Penn Quarter駅」から美術館までは徒歩6分ほどです。
ルーブル・アブダビ美術館
アラブ首長国連邦が国の柱である石油輸出業に代わる観光業の核として、2017年に創設したのが、この「ルーブル・アブダビ美術館」です。
更に鑑賞の目玉として、アブダビ文化観光局が総力を挙げて購入したのが、ダ・ヴィンチ作の「サルバトール・ムンディ(救世主)」です。
ただし、本作の公開は現在延期となっており、具体的な公開年はアナウンスされていません。公開されれば、この場所で一点のダ・ヴィンチ作品「サルバトール・ムンディ(救世主)」の見学が可能となります。更に本美術館は、パリ ルーブルの姉妹館になっており、定期的にルーブル(パリ)コレクションの一部を借り受けできる様になっているそうです。
アルテ・ピナコテーク
アルテ・ピナコテークは、ドイツのミュンヘン駅から地下鉄と徒歩で約10分ほどの場所にある美術館です。
館内には16世紀にヴィッテルスバッハ家が収集した絵画が一堂に並んでいます。本美術館では、1点のダ・ヴィンチ作品「カーネーションの聖母」を鑑賞する事ができます。
他にもラファエロの「カニジアーニの聖家族」や、デューラーの「4人の使徒」など名作が並びます。
パルマ国立美術館
パルマ国立美術館は、北イタリア パルマのピロッタ宮殿内にある美術館です。立地も良好で、最寄りのパルマ駅から徒歩10分ほどでアクセスできます。
本美術館ではダ・ヴィンチ作品のうちの1点「ほつれ髪の女性 」を鑑賞する事ができます。他にも館内には、アントニオ・コッレッジオやフランチェスコ・パルミジャニーノの作品をはじめ、16世紀や17世紀の名画が数多く並んでいます。
チャルトリスキ美術館
チャルトリスキ美術館は、ポーランドの京都と呼ばれる古都「クラクフ」にある美術館です。1801年にイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人によって設立されました。
本美術館では、ダ・ヴィンチ作品の1点「白貂を抱く貴婦人」を鑑賞できます。
他にもレンブラントをはじめとする14~18世紀のヨーロッパ絵画を数多く展示しています。
立地も観光のメインである旧市街の中心部に位置しており、クラクフ訪問時は必見の観光スポットです。
アンブロジアーナ図書館
アンブロジアーナ図書館は、17世紀初頭にミラノの大司教「フェデリーコ・ボッロメオ」によって設立された図書館です。
この場所では、ダ・ヴィンチ作品の1点「若い音楽家の肖像」を鑑賞する事ができます。
また、アトランティコ手稿と呼ばれるダ・ヴィンチのデッサンと注釈から成る手稿集もこの場所に展示されています。その内容は、数学、天文学、軍事技術など多岐に渡ります。もちろん、ボッティチェッリやカラバッジョなど他の有名画家の作品も複数展示されています。
アクセスはミラノの中心にあるドゥオーモから徒歩圏内です。
ダ・ヴィンチ関連のお勧め書籍
レオナルド・ダ・ヴィンチに関する書籍は世の中に数多くありますが、個人的にはダ・ヴィンチ研究の第一人者である「池上英洋」さんの著書がお勧めです。というよりも、この方の2冊を読めばダ・ヴィンチに関する知識はほぼ網羅できます。
ペンブックス1 ダ・ヴィンチ全作品・全解剖。 (Pen BOOKS)カラーの図柄やイラストが豊富で文書も簡潔明瞭で分かりやすく、レオナルド・ダ・ヴィンチの入門書としてお勧めの一冊です。
レオナルド・ダ・ヴィンチ: 生涯と芸術のすべて (単行本)正にレオナルド・ダ・ヴィンチに関する全てが凝縮された一冊と言える書籍で、ダ・ヴィンチを深く知るならこの一冊が一押しです。大事な部分には白黒写真も挿入されておりますが、基本は文章中心で、ページ数は601ページにも上ります。2019年の5月に発売されたものなので近年発見された「サルバトール・ムンディ(救世主)」に関する記載も多く、掲載内容も最新情報に基づいています。ある程度のダ・ヴィンチの知識がある方にお勧めですが、入門書としても悪くはないです。ただし、最初はちょっと難しく感じる方もいると思います。
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