ルーブル美術館の起源 - 城砦から王宮へ
{{PD-US}} - This photo is public domain
ルーブル美術館の起源は古く、12世紀頃まで遡ります。当時のフランス国王でルイ7世の子「フィリップ・オーギュスト(画像上中央)」が、敵国イギリスの侵略に備え、塔と住居を兼ねる簡素な城砦をパリ セーヌ川右岸に造らせたのが起源です。
この城砦が建てられたのは、現在のルーブルの「クールカレ(方形宮)」と呼ばれる正方形エリアの南西側の一角になります。参考までに現在のルーブルの館内図に当てはめてみましたのでご確認ください。
この一角(赤い四角のエリア)がルーブルの全ての始まりです。この時、エリアの中央には、高さ31mのドンジョン(天守閣)も築かれました。
一説では、ルーブルと言う名は、当時、城砦が建てられた土地の名「ルバラ」に由来すると言われていますが、確かな事はわかっていません。
その後、国勢が落ち着くと、城砦の軍事的な役割は薄れていき、監獄、武器庫、宝物倉庫などに利用される様になっていきます。歴代国王も時折り足を運び、城砦の住居部分に宿泊する事はありましたが、定住する事はありませんでした。
次なるルーブルの転機は14世紀、王位に就いたシャルル5世(在位:1364-1380年)が、パリの周囲に新しい城壁を建造し、城砦(後のルーブル)を王宮(国王の住居)とすべく大改修工事を計画します。
シャルル5世は宮廷建築家の「レイモン・デュ・タンプル」にこのプロジェクトを一任すると、簡素だった城砦は、国王が住むに相応しいゴシック様式の王宮「ルーブル城(画像下)」へと生まれ変わります。
{{PD-US}} - This photo is public domain
国王シャルル5世は、王宮内に貴重な書物や貴金属を収蔵する図書館を設けて館内整備を進めますが、ルーブルが王宮として機能したのは、ほんのわずかな間だけでした。
狂気王と呼ばれた「シャルル6世」の治世以降は、市民戦争や100年戦争の勃発など、フランスは再び動乱の時代に突入します。
王宮はロワール流域などに移り、ルーブル城(王宮)は100年ほど完全に放置状態となります。
フランソワ1世によるルーブル改修
ルーブルに再び大きな転機が訪れたのは16世紀初頭の国王「フランソワ1世(画像下)」の統治時代になってからの事です。
莫大な美術品の収集家として知られる国王「フランソワ1世」は、芸術でフランスを発展させようと考えた人物です。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」をイタリアからフランスに招いたのもこのフランソワ1世で、ルーブルの産みの親と言っても過言ではありません。
世界で最も有名な絵画「モナ・リザ」も、ダ・ヴィンチの死後に弟子からフランソワ1世が買い取ったものです。
建築邁進者であったフランソワ1世は、ルーブルの大改修に着手すると、 建築家の「ピエール・レスコー」にルネサンス様式の建物を設計させ、内部の装飾を彫刻家「ジャン・グージョン」に命じます。
残念ながら、フランソワ1世は、ルーブルの大改修が開始した翌年の1547年に亡くなってしまいますが、改修プロジェクトは、次の国王「アンリ2世(在位 1547〜1559年)」へと引き継がれていきます。
この2代国王の指揮の下、16世紀中頃までには、ルーブル初期の建造物であった「クールカレー(方形の中庭)」の西翼と南翼の棟が増改築され、「プチット・ギャルリー(小ギャラリー)」や「王の館」と呼ばれる建物も追加されました。また、敵国からの侵略を見張る塔「ドンジョン(天守閣)」は、この時代に役目を終えて取り壊されました。
そして、この改修後の建物に、ダ・ヴィンチやラファエロをはじめとする数々の名画を収蔵した事が、現在のルーブル・コレクションの始まりとされています。
ただし、この時点では、王室のプライベートな美術コレクションを王宮に所蔵しているに過ぎず、正式にこの場所が美術館と言う体裁を成すのは、200年以上後のナポレオン統治時代になってからの事です。
チェイルリー宮殿とグランドギャラリーの建設
1559年、国王「アンリ2世」が馬上槍試合の事故で亡くなると、翌年に、わずか10歳の「シャルル9世(在位 1560-1574年)」が即位します。
まだ若かったシャルル9世に代わって、実権を握った母親「カトリーヌ・ド・メディシス」は、夫(アンリ2世)が亡くなった館には住めないと、ルーブル宮の500mほど西側に、新たな王家の住まいとして、「チュイルリー宮」建設を命じます。
カトリーヌ・ド・メディシスの肖像画
{{PD-US}} - This photo is public domain
その後、宗教戦争などの混乱もあり「チェイルリー宮」の建設は長らく頓挫しますが、次の国王「アンリ4世(在位 1589-1610年)」の時代に再開され、17世紀初めに完成を迎えます。
更にこの時代、「ルーブル宮」の要塞だった部分を取り壊して敷地を4倍に広げ、その「ルーブル宮」と「チェイルリー宮」を結ぶ全長450メートルの大回廊「グランドギャラリー(画像下)の建設が開始されます。
この建設プロジェクトは「大ルーブル計画」と呼ばれ、国王(アンリ4世)の陣頭指揮の下、2人の建築家「ルイ・メトゾー」と「ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー」が携わり、1610年に南側の「グランドギャラリー(水辺のギャラリー)」のみが完成します。
アンリ4世は、このグランドギャラリーに、画家、彫刻家、金細工職人、宝石細工師など、多くの芸術家や職人たちを住まわせ、積極的に芸術や学問を奨励しました。
しかしその後、アンリ4世が、狂信的なカトリック教徒「フランソワ・ラヴァイヤック」によって暗殺されてしまい、北側の大ギャラリー建設と、ルーブル宮を4倍にする計画は、中断を余儀なくされます。
ルーブルからヴェルサイユ宮殿へ
フランス王室は、1618年に勃発した「三十年戦争」に勝利すると、絶頂期を迎えます。
この時点で王室が誇る美術コレクションも、約1500点に達していました。
「大ルーブル計画」も前王「アンリ4世」から継続され、建物は更に拡張されていきます。
アンリ4世の息子「ルイ13世(在位 1610-43年)」時代には、ルーブル宮の西翼(時計のパヴィリオン)と北翼の一部が完成。
次の「ルイ14世(在位 1643-1715年)」時代には、東翼が完成し、現在の「方形の中庭(クール・カレ)」と呼ばれるエリアの大枠が1674年に姿を表します。
この時点でのクールカレは、屋根の一部などがまだ未完成の状態でしたが、ルイ14世の関心は、徐々にルーブルから薄れていきます。
そして、王宮をルーブルからフランス郊外のヴェルサイユへと移したルイ14世は、莫大な国家予算をつぎ込んで、ヴェルサイユ宮殿の大改修プロジェクトを始動します。
以来、王室から完全に忘れさられる存在となったルーブルは荒廃していき、芸術家をはじめ、あらゆる階層の人達が住み着く様になります。また、優れた画家や彫刻家のアトリエなどに使用したり、王立絵画・彫刻アカデミーの拠点、展覧会場などにも利用されていました。
一方で、フランス王家が拠点をヴェルサイユ宮殿に移した後も、王室の美術コレクションは飛躍的に増加していきます。
18世紀のルイ16世の頃になると、ヴェルサイユ宮殿の改修はほぼ落ち着き、王室のコレクションをかつての王宮「ルーブル」で一般公開する事が検討されます。しかし、フランス革命によって王政が廃止されると、この話も立ち消えとなります。
現在のヴェルサイユ宮殿 - 鏡の間
ナポレオンの台頭と共和国美術館の誕生
革命直後のフランスは、ヨーロッパ諸国との戦争が絶えず、混乱の時代へと突入していきます。しかし、「ナポレオン・ボナパルト」という軍事の天才の登場により状況は一変します。
ナポレオンはヨーロッパの強国相手に連戦連勝、戦争に勝利する度に戦利品を新たな美術コレクションに加えていきました。
特にイタリアに勝利した際には、実に500をも超える美術品をフランス国内に持ち帰ったと言われています。
この時に追加されたコレクションの中には、現在もルーブル最大の絵画となっているヴェロネーゼ作「カナの婚礼」もありました。
カナの婚宴 - ヴェロネーゼ作(1562〜1563年)
ナポレオンの活躍でフランスの独立が守られ、美術品が莫大に増加していくと、ルイ14〜16世時代に荒廃していた「ルーブル宮殿」は劇的な変貌を遂げていきます。
1793年には、王室に変わりフランス革命以降の行政を担っていた「国民公会」が、ルーブル宮殿内の一部で、美術品の一般公開を開始します。
この時はまだ「ルーブル美術館」ではなく「共和国美術館」という名前でしたが、実質的にこれがルーブル美術館の誕生と言える瞬間でした。
1800年には、ナポレオンがエジプト・イタリア遠征やギリシャの古代遺跡発掘で得た美術品を展示する「ギリシャ・ローマ部門」もルーブル内に開設されます。
この時代のナポレオンの権力は絶大で、1803年から「共和国美術館(現在のルーブル)」を「ナポレオン美術館」と呼んでいた事が数年間ありました。
パリのノートルダム大聖堂で1804年に行われた戴冠式で、ナポレオンが皇帝の座につくと、ルーブルの所蔵品は尚も飛躍的に増加していきます。
ナポレオンの戴冠式の様子を描かせた作品「ナポレオン一世の戴冠式」は、現在もルーブル美術館の赤の間を飾る代表作となっています。
ナポレオン一世の戴冠式 - ダヴィッド作(1805〜1807年)
戴冠式の翌年には、現在のルーブルの西側、ガラスのピラミッドに対面して立つ「カルーゼル凱旋門」を建設します。
更にナポレオンは、歴代国王時代から長きに渡り構想されてきた「クールカレ(方形の中庭)」の屋根など、手付かずだった部分を完成させ、「チュイルリー宮殿」と「ルーブル宮殿」を結ぶ北側の回廊建設も再開させます。
この19世紀初めに行ったナポレオンの改修の際に、宮殿に住み着いていた芸術家や職人たちは強制的に退去させられてしまいます。
その後もナポレオンは、この美術館(ルーブル宮殿内の美術館)を世界最大規模にするべく、世界中から5000点もの作品を集めますが、1812年のロシア遠征で24万もの兵を失うと、求心力を無くし1814年に失脚。これにより、フランスが他国から略奪した美術品の多くは返還を余儀なくされます。
王政の終焉から第二共和制時代へ
ナポレオン1世失脚後、フランスでは王政が復活し、ルイ16世の弟「ルイ18世」が、1814年4月に国王に即位します。
ルイ18世の肖像画
{{PD-US}} - This photo is public domain
ルーブルの美術品数は、ナポレオン最盛期の五分の一ほどとなりますが、それ以降もルーブル宮殿の改修・増築は継続されていきます。
1821年には、現在のルーブルの至宝の一つである彫刻「ミロのヴィーナス」がコレクションに加わります。
ミロのヴィーナス - 作者不明(紀元前2世紀末)
「シャルル10世」が国王時代の1826年には、新たに「エジプト部門」がルーブルに追加されますが、国王の治世に不満を持った民衆が1830年の七月に革命を起こします。
この「七月革命」と呼ばれる革命によってシャルル10世は王座を追われ、イギリスに亡命します。更に次の国王となったオルレアン家の「ルイ=フィリップ」も、1848年に勃発した「二月革命」によって、権力の座を奪われます。
これにより、国王が全ての決定権を持って国政を執り行うフランス王政は完全に終焉を迎え、国民自らが政治の舵取りを行う「第二共和政」時代へと突入します。
第二次帝政時代とナポレオン3世のルーブル改修
1848年の王政廃止後、第二共和制の下で大統領に選ばれたのが、ナポレオン1世の甥「ルイ・ナポレオン・ボナパルト」でした。
ルイ・ナポレオン・ボナパルトの肖像画
{{PD-US}} - This photo is public domain
「ルイ・ナポレオン」は、大統領就任からわずか3年後の1851年にクーデタを起こすと、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗ります。
独裁権力を握った「ナポレオン3世」は、パリ の都市近代化を邁進すると共に、莫大な予算を注ぎ込んで、ルーブル宮殿の大改修に着手します。
主任建築家に「ルイ・ヴィスコンティ」を任命し、数千人の労働者を動員したこの改修では、建物群に囲まれた中央部分が整備され、「ナポレオンの中庭」と呼ばれる巨大な中庭が造られました。現在この場所には、ルーブル美術館のシンボルである「ガラスのピラミッド」がそびえ立っています。
建築主任の「ルイ・ヴィスコンティ」は1853年に亡くなってしまいますが、彼の後を引き継いだ建築家などにより、200年以上前からの悲願であったチュイルリー宮殿とルーブル宮殿を結ぶ北側の回廊が遂に完成を迎えます。
現在のルーブル美術館の建物としての大枠は、ほぼこの時に完成したと言われ、ナポレオン3世も「遂に大計画が実現した」と述べると共に、ルーブル宮殿の落成式を取り行いました。1857年8月14日の事でした。
フランス帝政時代の終焉とチュイルリー宮殿焼失
1857年にルーブル全体の建物が完成すると、ナポレオン3世は、宮殿内の装飾にも力を入れ始めます。
しかし、その装飾は過剰とも言えるほどで、人びとから「巨大な高級菓子店」と隠喩される始末でした。
さらに、数百年かけて増設されてきたルーブルの建物全体に歪み(ひずみ)が生じ、南側に傾き始めます。
こう言った事情から、落成式後もルーブルの内外工事は継続され、ナポレオン3世も美術品の所蔵数を増やすのに尽力しますが、皇帝の独裁体制にも徐々に翳りが見え始めます。
1870年、プロイセン(ドイツ)との戦争(普仏戦争)で捕虜になったナポレオン3世は失脚。これにより、皇帝が全ての政治権力を握る帝政時代(フランス第二帝政時代)は完全に終わりを告げます。
そして、翌年の1871年5月23日には、プロイセンとの和平に反対した自治体「パリコミューン(パリ市民で構成)」と「新政府」が衝突します。
パリ市内で勃発したこの事件は「血の一週間」と呼ばれ、数万人もの犠牲者を出しただけでなく、追い詰められた「パリコミューン」の民衆によって、「チュイルリー宮殿」などの建物が完全に焼き払われてしまいます。
皮肉にも、現在のルーブル美術館の外観の大枠は、この焼失によって最終的に形造られたと言えます。
チュイルリー宮殿の残骸が撤去された後、ルーブルは宮殿としての役割を完全に終えます。
その後、ルーブルの建物内に大蔵省などの政府機関が入っていた時代もありましたが、美術館としての機能は20世紀中に拡張され続け、所蔵作品は飛躍的に増加していきました。
ルーブル美術館 モナリザ盗難事件
1911年8月、ルーブル美術館である事件が起こります。絵画『モナ・リザ』が展示場所から、忽然と姿を消したのです。
モナ・リザの展示場所の盗難後の風景
{{PD-US}} - This photo is public domain
当時は写真を撮る目的で、絵画を持ち出す事も多く、『モナ・リザ』が展示場所になくても、盗まれたとは誰も考えませんでした。
しかし翌日、ある画家が『モナ・リザ』を模写しようとした事を切っ掛けに、事件が発覚します。
フランス警察は大規模な捜査チームを編成し、関係者を徹底的に取り調べますが、犯人と思しき人物は見つかりませんでした。
この時の容疑者の中に当時29歳の『パブロ・ピカソ』もいたそうです。もちろん彼は本件に関与しておらず、無事釈放されました。
捜査は2年経過しても何の成果も得られませんでしたが、1913年11月(盗難から2年3ヶ月後)に、モナリザを2億円で売りたいと、フィレンツェの古美術商「ゲーリー」の元に手紙が届きます。
この時、絵画を売りたいと言ってきた男は、ルーブル美術館に出入りしていたイタリア人のガラス職人「ヴィンチェンツォ・ペルージャ」と言う人物でした。
{{PD-US}} - This photo is public domain
結局「ペルージャ」は、取引の後日にイタリア警察に通報され、敢えなく御用となります。
無事に『モナ・リザ』が返還されると、世界中の新聞や雑誌にこの盗難事件が取り上げられ、ルーブル美術館への来場数が飛躍的に増加していきます。
大ルーブル計画と20世紀後半の近代化
1981年になると、ミッテラン大統領の下で「大ルーブル計画(グラン・ルーブル計画)」が実行され、ルーブルの近代化が進みます。
現在ルーブルのシンボルとなっているガラスのピラミッドとナポレオンホールもこの近代化計画の下で、1989年に完成したものです。
ガラスのピラミッドの設計は中国系アメリカ人建築家の「イオ・ミン・ペイ」が手掛けました。参考までに、滋賀県にある「神慈秀明会カリヨン塔 」も彼の作品です。
【ガラスのピラミッド】
【ナポレオンホール】
その後、1993年にはリシュリュー翼が展示スペースとして公開され、1998年にはドゥノン翼とシュリー翼がリニューアルオープンされました。
21世紀のルーブル美術館
21世紀に入ると、日本テレビ協力のもと 、2001年〜2005年まで4年間をかけて、「モナ・リザ」の鑑賞スペース「モナ・リザの間」を改修します。
モナ・リザの間の改修完了を祝い、フランス政財界、美術関係者やマスコミ関係者など、総勢約1500名を招待して、ルーヴル主催の内覧会が開催されました。現在も、モナリザの間はルーブル美術館随一の人気見学スポットとなっています。
【モナリザの間】
そして、2019年10月24日~2020年2月24日にかけては、ルーブル美術館史上でも最大級のイベント「ダ・ヴィンチ展」が開催されました。
この企画展は、レオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年を記念して行われたもので、ルーブルが既に所有しているダ・ヴィンチ作品はもちろん、ロンドンのナショナルギャラリー、ロシアのエルミタージュ美術館、バチカン美術館など、世界中の美術館からダ・ヴィンチ作品が集められました。
このイベント期間中の来場者数は110万人にも上り、ルーブルのこれまでの企画展の最高記録を倍以上更新する結果となりました。
ダ・ヴィンチ展の大成功で勢いにのるルーブルでしたが、2020年に入るとコロナウイルスの影響を受けて、休館を余儀無くされます。
その後、人数を限定しての開館と休館を繰り返しますが、2021年からは、自宅でルーブル美術館を実際に訪問する様に見学できる「Virtual tour」の導入や、公式HPの「コレクションページ」を一新するなど、オンラインの機能強化に力を入れていきます。現在はコレクションページを訪問すれば、誰でもいつでも48万点以上のルーブル所蔵作品の鑑賞が可能となっています。
また、2021年の初めには、日本を代表する企業「ユニクロ」と4年間のパートナーシップ契約を結び、第1段として2021年2月より、両者のコラボレーションアイテム(T-シャツやトレーナーなど)が日本国内で販売されました。
800年以上の歴史を持つ「ルーブル美術館」は現状に甘んじること無く現在も進化をし続けています。
- ・9:00〜18:00(月、水、木、土、日)
- ・9:00〜21:45(金)
この記事をシェアする