ヴェルサイユ宮殿の歴史を徹底解説

(公開:2021年2月12日)

ヴェルサイユ宮殿 パリ
ヴェルサイユ宮殿の庭園

本記事では、ヴェルサイユ宮殿の歴史を、歴代フランス国王やマリー・アントワネットの人生と共に徹底解説致します。

ヴェルサイユ宮殿の起源

ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿の成り立ちは、当時のフランス国王「アンリ4世」と息子の「ルイ13世」が、ヴェルサイユの森に初めて狩りに訪れた事が起源です。この時のヴェルサイユとその周辺は、緑豊かな森林地帯で、狩り場としては最高のスポットでした。もちろん、宮殿など影も形もありません。

初めてのヴェルサイユでの狩りに感動した「ルイ13世」は、自身の統治時代の1624年に、ヴェルサイユの小高い丘に狩猟用の館を建設させます。これがヴェルサイユ宮殿の建物の基礎となります。

1631年には、建築家の「フィリベール・ル・ロワ」に(ルイ13世が)命じて狩猟の館を小規模な「城館(画像下)」へと改築させます。

城館だった頃のヴェルサイユ宮殿(1660年~64年){{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

この改修で館の規模は大きくなりましたが、後の絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿の規模や豪華さとは程遠いものでした。以後、ルイ13世時代にこれ以上の改修が行われる事はありませんでした。

ルイ14世による大改修

ルイ14世の肖像画ルイ14世の肖像画

ルイ14世の統治時代になると、フランスの財力を世界中に示すため、莫大な費用を投じたヴェルサイユ宮殿の大改修が計画されます。この改修プロジェクトでは、建築、造園、絵画・装飾など、各分野における一流の技術者が集められました。

宮殿初期の設計は建築家の「ルイ・ル・ヴォー」と「フランソワ・ドルベイ」が、内部の装飾は画家の「シャルル・ルブラン」が、庭園の改修は造園家の「アンドレ・ル・ノートル」が、それぞれ担当しました。

1668年に元の城館を囲む様に新たな建物群が追加されると、同年7月には、ヴェルサイユの名をヨーロッパ全土に広めるための王室大宴遊会が催されます。

【1668年頃のヴェルサイユ宮殿】

1668年頃のヴェルサイユ宮殿{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

ヴェルサイユの大改修プロジェクトはその後も継続され、「ルイ・ル・ヴォー」に次いで設計を担当した建築家「アルドアン・マンサール」の指揮の下、1678年から大々的な拡張工事が開始されます。現在のヴェルサイユ宮殿内最大の見どころである「鏡の間」もこの時に計画されました。

ヴェルサイユ宮殿の敷地内には、常に2万人以上もの職人達が何らかの改修業務に従事し、二千頭もの馬が飼われていたそうです。

人件費や馬の維持費、これに莫大な軍事費や水源確保のための工事費も加わり、フランス王室はこの頃から慢性的な財政難でした。

ルーブルからヴェルサイユ宮殿へ

ルーブル美術館 ガラスのピラミッドルーブル美術館 ガラスのピラミッド

ルイ14世が実質的に親政を開始してから21年後の1682年4月、ヴェルサイユの改修完了を待たずして、宮廷と政府機関をルーブルからヴェルサイユ宮殿へ移す事が正式に布告されます。ルイ14世は3000人以上の家臣と共に宮殿に移住したと言われています。

これにより、14世紀後半のフランス国王「シャルル5世」の時代から約300年も続いたルーブルでの王宮時代は終焉を迎えます。

その後、ルーブルの建物は長らく王室に忘れさられ荒廃していきますが、この出来事がなければ、世界最大の「ルーブル美術館」は誕生しなかったと言っても過言ではありません。この辺りに関しては「ルーブル美術館の歴史」にて詳しく解説しております。

話をヴェルサイユ宮殿に戻します。宮殿の改修工事は、王室移転後も更に継続され、1684年には「鏡の間」が、1687年には「トリアノン宮殿(大トリアノン)」が、そして1710年には「王室礼拝堂」が完成していきます。

鏡の間、大トリアノン宮殿、王室礼拝堂

結局、ヴェルサイユ宮殿の大改修は、ルイ14世が親政を開始した1661年から約50年に渡り行われ、この時点(1710年)で一応の完成を見たと言えます。現在、我々が見る事ができる宮殿の姿も、この時までにほぼ形造られました。

しかし、ルイ14世はそれからわずか5年後の1715年9月1日に、壊疽(えそ)の悪化によりこの世を去ってしまいます。

この半世紀に渡たるルイ14世の建設プロジェクトは、宮殿周辺の村を街と呼べる規模まで発展させ、数百人の人口を30,000人近くまで増加させました。

また、ルイ14世の妥協なき姿勢(無茶振り)は、結果として、フランスの建築、給水技術などを飛躍的に発展させました。

庭園の噴水や宮殿内に水を運ぶ地下の供水システム(全長35km)には、ルイ14世時代に造られたパイプ管の7割〜8割が未だに使用されているそうです。

ルイ15世時代のヴェルサイユ宮殿

ルイ15世の肖像画ルイ15世の肖像画

ルイ14世の死後、まだ5歳と幼かったルイ15世(ルイ14世のひ孫)が成人するまで政務を担ったのは「オルレアン公(ルイ14世の甥)」でした。

オルレアン公は、空気が良いという理由で、ルイ15世をヴェルサイユ宮殿から、ヴァンセンヌ城へ(1715年に)移転させたため、王室の居城であった「ヴェルサイユ宮殿」は長らく放置状態となります。

それから7年後の1722年6月、ルイ15世(12歳)は自らの意志で再びヴェルサイユ宮殿に戻ります。更に翌年に成人を宣言した事で、宮廷と政府機関は再びヴェルサイユ宮殿に回帰します。

ルイ15世も、曽祖父に倣ってヴェルサイユ宮殿の改修を継続しますが、彼が初期に行った多くの改修は、プライベートな空間作りが中心でした。それは、二つの広間を一つに繋げたり、小さな広間を追加したり、内装をより洗練させるなど小規模なものでした。

しかし、治世の中期以降(1749年以降)では、当時最も有名な建築家の一人「アンジュ=ジャック・ガブリエル」に命じて、敷地内北側エリア(トリアノン)の増改築を手掛けていきます。1750年には「フランス館」を、1753年には「動物園」を完成させ、1768年には自身の愛人「ポンパドゥール夫人」のための城館「プティ・トリアノン(画像下)」を完成させます。

プティ・トリアノン

そして、ルイ15世時代に造られた最も代表的な建築物である北翼の「オペラハウス(王立オペラ劇場)」が1770年に完成すると、孫のルイ・オーギュスト(ルイ16世)と「マリー・アントワネット」の結婚式が盛大に執り行われます。オペラハウスはルイ15世が二人の結婚式に合わせて、わずか21ヶ月という工期で建築家のガブリエルに造らせたものです。

残念ながら、この結婚式が執り行われてから四年後の1774年5月10日、ルイ15世は天然痘により64年間の人生に幕を閉じます。

ルイ16世とマリー・アントワネット

ルイ16世の肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

1770年に「マリーアントワネット」と婚姻関係を結んだ「ルイ16世(画像上)」は、その四年後の1774年5月10日にフランス国王に即位します。

参考までに、ルイ16世はルイ15世の孫にあたり、マリー・アントワネットはオーストリア女帝マリア・テレジアの娘(十一女)です。マリー・アントワネットとの結婚は、当時敵対関係にあったフランスとオーストリア公国が和議を結ぶための政略結婚でした。

マリー・アントワネットの肖像画マリーアントワネットの肖像画

内向的で勤勉な人物であったとされる「ルイ16世」の関心は、宮殿の改築よりも、狩猟や錠前作りにありました。そのため、彼の時代にこれと言った宮殿改修は行われませんでしたが、寵愛する「マリー・アントワネット」に先代国王が建てた「プティ・トリアノン」を与えました(1774年)。

マリー・アントワネットは、「プティ・トリアノン」を大いに気に入り、同じエリアにあった動物園を取り壊したり、庭園をイギリス式にするなど、自身の好みに造り替えていきました。彼女が改修を行ったプティ・トリアノン一帯は「マリー・アントワネットの離宮」と呼ばれ、愛人のフェルゼンと密会を行った「愛の神殿(1777年建設)」や、彼女が親しい貴族だけを集めて過ごした「王妃の村里(1783~1785年建設)」などが点在しています。

愛の神殿、王妃の村里

フランス革命勃発前の数年間、ルイ16世とアントワネットは居殿や離宮にこもりがちになり、日に日に世の中から孤立していきました。更にルイ14世治世時代から続く財政難にアントワネットの散財が加わり、この頃のフランス財政は火の車でした。フランス市民の生活はパンを買う余裕もないほど困窮し、もはや王室に対する不満と怒りは限界に達していました。

フランス革命と国王夫妻の最後

連行される国王夫妻連行される国王夫妻

運命の1789年7月14日、ついにフランス革命が勃発すると、市民の怒りの矛先である国王一家は、パリのテュイルリー宮に連行されます。

革命から約2年後、国王一家の処遇が議論される中、フェルゼンの助力で、国王一家はオーストリアへの逃走を試みます。オーストリアは、アントワネットの母国であり、兄の「レオポルト2世(当時のローマ皇帝)」の強力な伝がありました。

しかし、逃亡からわずか二日後に敢えなくパリ国境近くの「ヴァレンヌ」で捕まり、再びパリへと連れ戻されます。この逃走劇「ヴァレンヌ事件(1791年6月)」により国王の権威は失墜し、国王一家を擁護する人々からも完全に見捨てられてしまいます。

そして、国王一家がタンプル塔に身柄を移された後の1793年1月、ついにルイ16世がパリのコンコルド広場(画像下)でギロチン刑となります。

コンコルド広場のオベリスク

更に同年8月、マリー・アントワネットは、パリ シテ島にある牢獄に身柄を移されると、2ヶ月後の10月16日に夫と同じ場所でギロチン刑に処せられます。これにより、フランス王妃「マリー・アントワネット」の決して長いとは言えない37年間の人生に幕を閉じます。

【牢獄から死刑台へ連行されるアントワネット】

牢獄から死刑台へ連行されるアントワネット

牢獄から死刑台へ連行されるアントワネット

死刑当日まで、マリー・アントワネットが収監されていた牢獄は、現在「コンシェルジュリー(画像下)」と呼ばれ、パリの人気観光スポットの一つになっています。

コンシェルジュリーの外観

フランス革命後のヴェルサイユ宮殿

フランス革命後、ヴェルサイユ宮殿は王宮としての役割を失い、もぬけの殻の様な状態になります。宮殿内の家具は散逸し、庭園も荒れ果てていきました。幸いにも、宮殿の建物そのもに大きな被害はなく、貴重な美術品の多くは、現在のルーブル美術館に運ばれました。

その後、19世紀初期のナポレオン1世、ルイ18世、シャルル10世など、時の権力者たちもヴェルサイユ宮殿に興味を持ち、改修を手掛けていきました。この時代の改修で荒れ果てていたヴェルサイユ宮殿は、徐々に本来の姿を取り戻しつつありましたが、再び王宮をヴェルサイユにおく事はありませんでした。なぜなら、革命後のヴェルサイユ宮殿は、腐敗した王家の象徴であり、そこに拠点を置く事は、多くの国民や新体制への挑発行為に他ならなかったからです。

そのため、ヴェルサイユ宮殿の取り壊しを望む声も強く、常に取り壊しの有無が議論されていました。しかし、1830年に「ルイ・フィリップ」が国王に即位した事で風向きが変わります。ルイ・フィリップは、国王即位から3年後の1833年9月に、ヴェルサイユ宮殿を歴史美術館にする事を命じ、約4年後の1837年6月に美術館として開館させます。

19世紀後半以降のヴェルサイユ宮殿は、国内外における政治の重要な決定や調印を行う場としての役割が強くなっていきます。

20世紀後半には、宮殿と付属施設の修復が開始され、大トリアノン、鏡の回廊、王妃の寝室など、敷地内の主要スポットが次々と当時の姿を取り戻していきました。フランス革命後に失われた家具や調度品なども、この改修に合わせて再整備され、1979年には、ヴェルサイユ宮殿と庭園がユネスコの世界遺産に登録されました。

現在のヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿

21世紀現在のヴェルサイユ宮殿は、宮殿や庭園はもちろん、家具や調達品の配置までが、専門家の厳しい監修のもと、可能な限り当時に近い状態で再現されています。

総面積800ヘクタール(東京ドームの約175倍)を誇る広大な敷地内には、「宮殿」「庭園」「大トリアノン」「マリー・アントワネットの離宮」「馬車博物館」など、多くの見所が存在しています。

ヴェルサイユ宮殿は敷地内と庭園(一部有料)への入場は無料ですが、宮殿などの建物に入場するには有料チケットが必要となります。夏場は噴水ショーや花火など、季節に応じたイベントなども行われ、常に多くの観光客で賑わっています。

ヴェルサイユ宮殿の観光情報やその他の情報に関しては以下を参考にしてください。

【ヴェルサイユ宮殿の営業時間】
  • ・09:00~18:30(4月〜10月)
  • ・09:00~17:30(11月〜3月)
【トリアノン宮殿・マリーアントワネットの離宮 営業時間】
  • ・12:00~18:30(4月〜10月)
  • ・12:00~17:30(11月〜3月)
【庭園の営業時間】
  • ・08:00~20:30(4月〜10月)
  • ・08:00~18:00(11月〜3月)
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