モナリザを分かりやすく解説 – モデル考察と謎の微笑み

ルーブル美術館 パリ ダヴィンチ
モナ・リザ

本記事ではレオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作「モナ・リザ」を徹底解説致します。作品紹介はもちろん、モデルや風景の考察、微笑みの謎やエピソード、作画技法、来歴、見学情報まで幅広くご紹介致します。

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モナ・リザとは

モナ・リザ - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

レオナルド・ダ・ヴィンチ作「モナ・リザ」とは何かをQ&A形式でご紹介致します。

モナ・リザとは?

ルネサンスの巨匠「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が16世紀初期に描いた油絵の肖像画です。

「モナ・リザ(Mona Lisa)」と言う名は英語名で、フランス語では「ラ・ジョコンダ(La Joconde)」と呼ばれます。

モナ・リザのモデルは誰か?

モデルが誰かに関しては諸説語られており、特定には至っておりませんが、「リザ・ゲラルディーニ(リザ・デル・ジョコンダ)」と言う女性であると言う説が有力です。

この女性は、フィレンツェの富豪「フランチェスコ・デル・ジョコンダ」の妻だった人物で、「モナ・リザ(Mona Lisa)」を和訳すると「リザ夫人」という意味になります。

いつ誰の依頼で描かれたのか?

モナ・リザが、いつ誰の依頼で描かれたかについても確実な記録は残っていません。残された資料や文献などから推測する限りだと、モデルの夫「フランチェスコ・デル・ジョコンダ」か、16世紀初期にフィレンツェを治めていた「ジュリアーノ・デ・メディチ(ヌムール公)」が(レオナルドに)依頼したと言う説が有力です。

モナ・リザの大きさはどのくらい?

縦77cm、横53cmとかなり小サイズで縦長の絵画になります。

モナ・リザの何が凄いのか?

『モナ・リザ』は、年間800万人もの来場数を記録したルーブル美術館で最も人気のある絵画であり、間違いなく世界で最も有名な絵画です。

その価値を金額で示すと、8億7000万ドル(約1000億円)になると言われています。

作品クオリティの高さ、絵画にまつわる謎やエピソードの多さ、あらゆる要素が人々の興味を引きつけて止みません。 かつて、フランス国王やナポレオンも本作を切望したほどです。

また、生涯で16点ほどしか作品を残さなかったレオナルドが、死ぬまで手元に残した絵画3点のうちの1点でもあります。

言わば、芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの集大成とも言える作品で、彼が芸術家として培ってきた技術の全てが込められています。

モナ・リザの基本情報

モナ・リザの基本情報を表にまとめると以下のとおりです。

製作者レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年1503年〜1519年(未完)
所在地フランス パリ
展示場所ルーブル美術館の1階ドゥノン翼にある「モナ・リザの間(第711室)」
作品形態油彩、板(ポプラ板)
大きさ縦77cm × 横53cm
依頼主ジュリアーノ・デ・メディチ(諸説あり)
公式HP(英語)https://www.louvre.fr/en/explore/the-palace/from-the-mona-lisa-to-the-wedding-feast-at-cana

作品の構図

モナ・リザのピラミッド構図

モナ・リザは「ピラミッド構図」と呼ばれる、頭部を頂点として三角形を形成する安定した構図で描かれています。この構図は、作品に均整と調和をもたらし、バランスの良い安定した印象を鑑賞者に与えてくれます。

作中のモデルは、わずかに微笑んだ表情で、バルコニーに置かれた椅子に、背筋をピンと伸ばして腰掛けています。ちょうどピラミッド構図の底辺部分で椅子のひじ掛けに左腕を置き、その上から交差する様に右手で左腕を握っています。

モナ・リザの両腕

この『モナ・リザ』の構図が、当時として革新的だったのは、モデルの顔と体の向きです。作中で描かれている女性は、上体をやや右斜めにした状態で、顔をこちらに向けています。

モナ・リザ

まるで誰かに呼ばれて、振り返った瞬間をとらえた様なこの描写は、真正面でも真横でもなく、 4分の3正面と言われます。

一見、よく見る構図ですが、レオナルド以前の画家が描く肖像画は、モデルを横顔で描くのが常識でした。

横向きに描かれた肖像画

また、レオナルドの先輩画家の「サンドロ・ボッティチェッリ」が、モデルを真正面から描く肖像画を1480年頃に残しています。

サンドロ・ボッティチェッリ作の肖像画
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当時としては、この真正面構図も多少は革新的でしたが、どこか迫力に欠け、モデルから「生命」の力強さが伝わってきません。

レオナルドはかなり早い段階で、肖像画のモデルを真横から描くと言う固定観念を捨てており、1480年完成の『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像(画像下向かって左)』や、1490年頃完成の『白貂を抱く貴婦人(画像下向かって右)』で、既に革新的な構図に挑んでいました。そして『モナ・リザ』で、その革新的試みは完成を見たと言えます。

ジネヴラ・デ・ベンチの肖像と白貂を抱く貴婦人
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レオナルドの革新的な構図以来、『モナ・リザ』の構図は、ラファエロをはじめ、後年の画家にとっての肖像画のスタンダードとなりました。

1504年頃に、レオナルドのアトリエを師のペルジーノと訪れた「ラファエロ」は、描きかけの『モナ・リザ』を見て、その素晴らしさに感動して涙したと言われ、本作の模写も残しています。

ラファエロ・サンティ作 モナ・リザの模写
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この下絵は『モナ・リザ』の製作年やモデルを検証する上で重要な手がかりとなっています。

背景 - モナ・リザの風景が示すもの

モナ・リザ 顔の部分拡大写真

レオナルドが空想で描いたとされる『モナ・リザ』の背景は、まるで太古の景色、言わば人類の起源の様な神秘的な風景です。

これは、雲や木など季節や時間を表すものが描かれていない事や、モナリザの左右で地平線の高さが異なっている事などが大きな要因と言われています。

モナリザの背景の拡大画像

また、遠くの景色が青がかって、大気が揺れる様に霞んで見えるのは、レオナルド独自の技法「空気遠近法」により、敢えてこの様に描かれているからです。

モナリザの背景の拡大画像

この表現は、レオナルドが幼少期に培った、自然に対する鋭い観察眼に基づいています。

幼少期に学校へ通えなかったレオナルドは、自然が師であり、水の力学や様々な自然の原理を実際に目で見て学びました。

中でも「水」は、子供の頃より親しんできた特別な存在で、彼の研究内容を記した「手稿」の多くのページは、水の流れについて考察されています。

水の流れに関する考察を記した手稿の一部

レオナルド・ダヴィンチの手稿
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レオナルドは、手稿の中で「血液」と「水」を密接に関連付けていました。

人間の命の源である血液が体内を循環する様に、地球では「水」という血液が自然界を循環すると考え、「水」こそが生命の象徴であり、生命の担い手、生命体の養分であると信じていました。

レオナルドは以下の様な言葉も残しています。

《変化する水の流れこそが移りゆく生命を象徴している》

《水は継続的な運動によって、海の底から山の頂きまでを循環する》

本絵画の風景も、水の循環によって生命のサイクルを表していると言われています。

モナ・リザの背景の説明画像

まず、絵画に向かって左手側、赤い地表から湧き上がった熱水は、小道を登り大海へと出ます。水の流れは反対側(向かって右側)の大海へと続き、そこに蓄積された水は、再び地表へと流れ出ます。流れの最終地点には、人間の文明を表すとされる橋が描かれています。

そして、このサイクルの真ん中に圧倒的存在感で描かれているのが「モナ・リザ」です。向かって左側の支流はモナ・リザの心臓部分から流れ出ている様にも見えます。

前述した様に、レオナルドは水を生命の象徴と考えていた訳ですから、その源として描かれている「モナ・リザ」は生命の母、あるいは、生命の起源を表していると言われています。

【レオナルドの欧州で最古の風景画】

フィレンツェのウフィツィ美術館には、レオナルドが21歳の頃にアルノ川の景観を描いた、ヨーロッパで最古とされる「風景画(画像下)」が保管されています。

レオナルド・ダヴィンチの風景画
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この風景画の存在は、風景画と言うジャンル自体がなかったルネサンス期において、レオナルドが如何に自然に強い思い入れがあったかを如実に示しています。宗教画が中心の中世の時代に、自然の景色が主役の風景画を描く画家など、皆無だったからです。

参考までに、風景画という絵画ジャンルがヨーロッパで確立されるのは、レオナルドが生きていた時代よりも400年以上後の19世紀に入ってからです。

絵画左右の黒い影

『モナ・リザ』をよくよく見ると、左右の両橋に黒い影の様なものが見えます。この部分を拡大してみると、円柱の基部である事が分かります。

モナリザ部分拡大画像

向かって右側は分かりにくいですが、左側の方は柱の土台が確認できると思います。

この痕跡から、イギリスの美術史家「ケネス・クラーク」が、ある芸術家に、1943年2月25日に宛てた手紙の中で、かつて『モナ・リザ』の両端には円柱が描かれていた可能性があると示唆しました。

更に1959年には、ドイツの美術史家「リチャード・フリーデンタール」が、『モナ・リザ』の両端は10cmづつ、絵画全体幅で20cm切り取られていると主張しました。

以来、この説は支持され、『モナ・リザ』の両端は、何かの理由で切り取られてしまったと言うのが、定説となっていました。

この説を示す根拠の一つに、ラファエロが1504年頃に『モナ・リザ』を実際に見て模写したデッサンが挙げられます。

ラファエロ・サンティ作 モナ・リザの模写
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両端には、はっきりと円柱が描かれています。

また、『モナ・リザ』の模倣作品は他にも多く存在し、それらの多くにも円柱が描かれています。

アイルワースのモナリザ
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しかし、ドイツの大学教授で美術史家の「フランク・ツェルナー」は、この説(両端が切り取られた)を否定しました。

その後、2004年10月に39人の国際的な専門家グループにより、最新技術による検証が行われ、『モナ・リザ』の両端が切り取られた痕跡はない事が確認されました。

更に2006年のレポートでは、わずかに絵画の端に切り取られた跡はあるものの、彩色部分までは及んでいないと報告されました。

以上から、令和現在も、『モナ・リザ』の両端が切り取られた事実はないと言う見解で一致しています。

この場合、ラファエロの模写デッサンの謎が残りますが、そもそも、彼が見た時点で、『モナ・リザ』は製作初期段階であったほか、ラファエロが独自にアレンジを加えた可能性もあります。

また、レオナルドが両端に円柱を描いた別バージョンの『モナ・リザ』が存在し、それが模写された可能性や、現在の『モナ・リザ』の左右に残る柱の基部自体が、別の誰かによって加筆された可能性なども示唆されています。

ただし「別バージョン説」と「加筆説」を裏付ける根拠や記録は一切見つかっていません。

モナ・リザの風景は実在する!?

モナ・リザで描かれている「風景」は、レオナルドの創作と言われていますが、部分的にモデルとされる場所が存在するとも言われています。

まず、右手の背景下方に橋が描かれていますが、この橋は、フィレンツェ アルノ川上流にある「ポンテ・ブリアーノ(ブリアーノ橋)」がモデルではないかと言われています。

モナ・リザ 背景の部分拡大写真

ブリアーノ橋

この橋はレオナルドが生まれる遥か前の13世紀に造られたもので、彼はチェーザレ・ボルジアの軍事技師として、モナリザを描く一年ほど前に、この辺りで働いていました。

更に、ブリアーノ橋から北方約120kmほど離れた場所に「レ・バルツェ」と呼ばれる場所があり、このエリアの険しい山岳風景が、レオナルドの『岩窟の聖母』や『モナ・リザ』の風景の参考になったのではないかとも言われています。

レ・バルツェの風景

レ・バルツェの風景
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モナリザのモデルを考察

モナ・リザの顔

結論から申し上げます。『モナ・リザ』のモデルが誰であるかについては、令和の現在においても未だ特定には至っていません。

モデルに関する有力説はいくつか存在していますが、全ての異説を打破し、完全に真説である事を証明できたものはありません。

レオナルドは、メモ魔であったため、生涯の研究内容、日々の出来事、入出金履歴まで、手稿と呼ばれるノートに記録していましたが、『モナ・リザ』に関しては皆無と言っていいほど記録がありません。

そのため、モデルが誰であるかについては、レオナルド世代以降の人々が残した記録や手紙から推測するしかありません。

その上で、どの説を検証するにおいても前提となるのが、アラゴン枢機卿の秘書「アントニオ・デ・ベアティス」が残した以下の記録です。

《1517年10月にクルー館を訪れた際に、レオナルド本人に3枚の絵画『フィレンツェの婦人』『聖アンナの膝に座った聖母子』『若い洗礼者聖ヨハネ』を見せてもらった。このうち『フィレンツェの婦人』はジュリアーノ・デ・メディチの依頼である。》

上で記されている絵画3枚は、レオナルドが亡くなったフランス アンボワーズの「クルー館」で、死ぬまで手元に残したとされる作品です。そして、3枚の中の『フィレンツェ婦人』は、ほぼ間違いなく『モナ・リザ』の事を指すと考えられています。

『フィレンツェの婦人』=『モナ・リザ』ではないと主張する研究者も根強くいますが、本記事では、『フィレンツェの婦人』=『モナ・リザ』として、各モデル説を検証していきます。

検証の前に、新たな補足も加えて、『モナ・リザ』と「レオナルド」の有力情報をまとめると、以下の通りです。

  • 有力情報①ラファエロが『モナ・リザ』を模写したデッサンや、現存する記録などから、本作の制作開始年は1503年から1504年頃というのが最有力。

  • 有力情報②レオナルドは晩年の1517年から、亡くなる1519年まで、フランスのアンボワーズにある「クルー館」で過ごした。

  • 有力情報③レオナルドが亡くなった時、3枚の絵画が手元に残った。そのうちの一枚は、ジュリアーノ・デ・メディチの依頼で製作中の「フィレンツェの婦人の肖像画」だった。この肖像画が『モナ・リザ』である可能性は非常に高いが、100%ではない。

  • 有力情報④レオナルドが1519年に亡くなった後、『モナ・リザ』は弟子の1人が相続するが、後にフランス国王「フランソワ1世」に買い取られた。

  • 有力情報⑤フランソワ1世により、フランス王家の所有となった『モナ・リザ』は、フォンテーヌブロー宮(フランス国王の住まい)やナポレオン(フランス皇帝)の寝室に飾られた後に、現在のルーブル美術館の所蔵となった。

それでは以下より、各モデル説を個人的に確度の高いと思う順番で検証していきます。

リザ・ゲラルディーニ(リザ・デル・ジョコンド)説

モナ・リザ

『モナ・リザ』が、リザ・ゲラルディーニ(リザ・デル・ジョコンド 又はリザ夫人)であると言うのは、最も広く信じられている説です。

参考までに、本作の英語名である「Mona Lisa(モナ・リザ)」は「リザ夫人」、フランス名の「La Joconde(ラ・ジョコンダ)」は「ジョコンダ夫人」と言う意味で、どちらも「リザ・ゲラルディーニ」の事をさします。

このリザ夫人こと「リザ・ゲラルディーニ」は、フィレンツェの富豪で繊維業を営んでいた「フランチェスコ・デル・ジョコンダ」の妻で、モナ・リザが製作開始されたとされる1503年は24歳でした。

そして、本説が広まる切っ掛けとなったのが、レオナルドが死去した31年後の1550年に、画家で美術史家の「ジョルジョ・ヴァザーリ」が、著書「芸術家列伝」で記した以下の一文です。

《レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、彼の妻「リザ・ゲラルディーニ」の肖像画を描くことになった。だが4年間製作に励んだ末、未完成となった。いまこの絵画はフランス王の所蔵となり、フォンテーヌブロー宮にある。》

上記はかなり有力な証言ですが、ヴァザーリは『モナ・リザ』を一度も見ておらず、伝聞だけを頼りに情報を記しています。

ここから分かるのは、レオナルドが「リザ夫人」の肖像画を描く事になったと言う事実だけで、『モナ・リザ』=「リザ・ゲラルディーニの肖像画」と結論付ける事はできません。

そして、この説の真偽が長年に渡り議論され続ける中、2005年に本説が再注目される大きな出来事が起こります。

ハイデルベルク大学の研究員が、同大学の図書館が所蔵する本に『モナ・リザ』の事を書いたと思われるメモ書(画像下)きを発見したのです。

ジネヴラ・デ・ベンチの肖像と白貂を抱く貴婦人
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写真に向かって右手側の文字が発見されたメモです。

1503年10月と言う日付が入ったこのメモ書きには、レオナルド・ダ・ヴィンチが現在絵を描いている事と、それが「リザ・ゲラルディーニ」の絵である事が記されていました。

レオナルドが『モナ・リザ』を描き始めたのは、1503年頃とされており、この発見で「リザ・ゲラルディーニ」が『モナ・リザ』であると言う説の信憑性がより一層高まりました。

しかも、本章の初めに説明した様に、晩年のレオナルドの手元には、「ベアティス」によって「フィレンツェの婦人」と表現された絵画『モナ・リザ』があったことは、ほぼ間違いありません。

そして、フィレンツェの富豪の妻であった「リザ・ゲラルディーニ」は「フィレンツェの婦人」と言う人物像に完全に当てはまります。

これにより『モナ・リザ』=「フィレンツェの夫人」=「リザ・ゲラルディーニ」と言う考察が完成します。

以上の事から「リザ・ゲラルディーニ」が『モナ・リザ』のモデルであると言う説は、現在もかなり有力な説の一つとなっています。

本説の疑問点と問題点

一見、かなり有力に思える本説ですが、大きな問題点がいくつかあります。

まず、問題となるのが、作品の依頼主です。

レオナルドの友人でもある夫の「フランチェスコ・デル・ジョコンダ」が、出産を記念して、妻(リザ・ゲラルディーニ)の肖像画を依頼したというのが、最も自然な流れですが、その根拠を示すのは、ヴァザーリの著書「芸術家列伝」の《レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、妻リザ・ゲラルディーニの肖像画を描くことになった》と言う一文のみになります。

しかし、ヴァザーリは伝聞を頼りにこの一文を記載したため、やや信憑性に疑問が残ります。

また、レオナルドが友人で依頼者の「フランチェスコ・デル・ジョコンダ(1539年没)」に何故本作を渡さなかったのかも説明がつきません。

一方、1517年にクルー館で、「フィレンツェの夫人の肖像画」を見たと言う記録を残した「アントニオ・デ・ベアティス」は、その絵の注文者は「ジュリアーノ・デ・メディチ」であると記しています。

記録としては、「ヴァザーリ」よりも、実際に絵を見た「ベアティス」の方が確証が高いとされており、注文者は「ジュリアーノ・デ・メディチ」と考える方が自然です。

また、ジュリアーノは1516年に亡くなっているため、レオナルドが『モナ・リザ』を納品しなかった事も、ある程度説明がつきます。

しかし、本説のとおり『モナ・リザ』=「フィレンツェの婦人」=「リザ・ゲラルディーニ」とした場合、なぜメディチ家のジュリアーノが、人妻である「リザ夫人」の肖像画をレオナルドに依頼したのかと言う新たな疑問が生じます。

この部分に関しては、レオナルド研究の第一人者である「池上英洋」さんが、様々な見解を示されています。興味のある方は、以下の書籍を読んでみてください。

問題点はまだあります。本説でモデルとされる「リザ・ゲラルディーニ」は、『モナ・リザ』が描かれたとされる1503年時点では、24歳なので明らかに若すぎますし、「リザ・ゲラルディーニ」自身の実像を伝える他の肖像画も残されていないため、似ているかの判別もできません。

また、当時の肖像画は富裕層のためのものであり、自身の身分や裕福さを示すため、豪華に着飾るのが常でした。

しかし『モナ・リザ』はまるで喪服の様な衣装をまとい、装飾類はほとんど身につけていません。

子供を亡くして喪服を着ていたという説もありますが、人妻の「リザ・ゲラルディーニ」が『モナ・リザ』のモデルであるとすれば、結婚指輪だけは、必ず描かれているはずで、指輪がないのは明らかに不自然です。

モナ・リザの両腕

他にも疑問点や矛盾点はいくつかありますが、以上がこの「リザ・ゲラルディーニ」を『モナ・リザ』のモデルと特定できない大きな理由です。

イザベラ・デステ説

イザベラ・デステ {{PD-US}} - This photo is public domain

『モナ・リザ』のモデル候補の一人である「イザベラ・デステ(画像上)」は、かつてイタリア北部にあった国「マントヴァ公国(現在はイタリアの都市の一つ)」の公妃で、芸術愛好家としても知られていました。

大国フランスのミラノ公国侵略により、長年ミラノ宮廷に仕えていたレオナルドはミラノを離れ、一時的にマントヴァ公国に身を寄せていた時期がありました。

「イザベラ・デステ」は、フランスを刺激するのを恐れ、レオナルドの長期滞在は明確に拒否したものの、既に巨匠として国内外にその名を知られていたレオナルドを、偉大な芸術家として丁重にもてなしました。

レオナルドは、お持てなしの御礼として、マントヴァ公国を去る際に、彼女を描いた肖像画のデッサンを贈りました。

この際にデッサンは2枚描かれたとされ、一枚は「イザベラ・デステ」に、もう一枚はレオナルドの手元に残りました。

そして、この下絵の一枚(画像下)を仕上げた作品こそが『モナ・リザ』であるとするのが、「イザベラ・デステ」モナリザ説です。参考までにイザベラも「リザ」と言う愛称で呼ばれていました。

イザベラ・デステのデッサン - レオナルド・ダヴィンチ作
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上の肖像画を『モナ・リザ』と比較すると、顔の向きこそ違いますが、確かに衣服、ポーズ、顔つきなどがかなり似ています。

モナ・リザ

記録によれば「イザベラ・デステ」は、再三に渡りこの下絵を色絵として仕上げる事を、手紙や使者を送って依頼しますが、レオナルドはこの依頼をことごとく無視したそうです。

つまり、『モナ・リザ』は、「イザベラ・デステ」の下絵を元に描かれたものの、何らかの理由で、レオナルドが絵画を渡せなかった、もしくは渡したくなかったために、画家の手元に残り、生涯筆を入れ続けた作品である。というのが、この「イザベラ・デステ」モデル説の大筋のストーリーです。

本説の疑問点と問題点

本説の疑問点は、何故レオナルドが、小国とは言え、一国の公妃の依頼を、再三の催促にも関わらず、無視し続けたのかと言う点です。

単に、作品を描いているうちに愛着が湧いたからと言えば、それまでですが、さすがにそれだけでは説得力に欠ける部分があります。

また「アントニオ・デ・ベアティス」 が、1517年にフランスのクルー館で、ジュリアーノ・デ・メディチの依頼で製作中の「フィレンツェの夫人の肖像画(モナ・リザ)」を見たと言う記録とも矛盾が生じます。依頼主の違いはもちろん、「イザベラ・デステ」を「フィレンツェの夫人」とするのは、さすがに無理があるからです。

更に2013年に、この説を根底から揺るがす大ニュースが飛び込んできます。

スイスのルガーノにある銀行の金庫から、「イザベラ・デステ」の下絵を仕上げたと思われる『モナ・リザ』とは全く別の肖像画が発見されたのです。

彩色されたイザベラ・デステの肖像画
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レオナルド研究の世界的権威である「カルロ・ペドレッティ」は、この発見された絵画は間違いなく、レオナルドが描いたものだと鑑定しました。

実際に、『モナ・リザ』と発見された「イザベラの肖像画」を並べると、目、鼻下、あご下の位置などが見事に一致しています。

モナ・リザとイザベラ・デステの肖像画の比較
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現在、このイザベラの彩色画は、所有者が在住する「イタリア」と、絵画が発見された「スイス」との間で、所有権が争われています。

さて、この発見により、現存する「イザベラ・デステ」の下絵から『モナ・リザ』が描かれたと言う説は、かなり信憑性が低くなりました。なぜなら、イザベラ・デステの彩色した肖像画が存在する以上、『モナ・リザ』の下絵(画像下)と考えられていたものは、別の肖像画として、レオナルドが完成させていた事になるからです。

イザベラ・デステのデッサン - レオナルド・ダヴィンチ作
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ただし、発見されたイザベラの肖像画(彩色画)が、確実にレオナルドの作品であるか否かはまだ確定しておりませんので、『モナ・リザ』=「イザベラ・デステ」と言う説は、可能性をわずかに残しています。

参考までに、発見された絵の所有者は、イタリア人の資産家女性でした。しかし、ドバイの富豪に売却のコンタクトを試みた際に、代理人の弁護士が国境でイタリア政府に逮捕され、その時スイスにあった絵画もスイス政府に押収されてしまったそうです。

これは、個人の所有物でも、歴史的な絵画を国外に無断で持ち出して、売却する事が、イタリアとスイスの法に反するためです。押収時には、1億4000万ユーロ(当時のレートで約182億円)で、ドバイの富豪に売却する交渉が進行中だったそうです。本来の絵の所有者である女性は、その所有権をめぐって国と争う意向を示しています。

ジュリアーノ・デ・メディチの愛人説

『モナ・リザ』のモデルが、「ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)」の愛人「パチフィカ・ブランダーニ 」であるとするのは、現在も多くの研究者や有識者に支持されている説の一つです。

ジュリアーノ・デ・メディチの肖像画

ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)の肖像画
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『モナ・リザ』の依頼主とされる「ジュリアーノ・デ・メディチ」は、ローマ教皇レオ10世の弟で、父は豪華王の異名でフィレンツェを圧倒的な権力で支配した「ロレンツォ・デ・メディチ」です。

一時はメディチ家の没落で、フィレンツェを追放されていた「ジュリアーノ」でしたが、復権後の1513年から1516年まではフィレンツェを治めていました。また、パトロンとして、ローマ時代のレオナルドを支援していた人物としても知られています。

さて本題に入ります。この「ジュリアーノ」の愛人「パチフィカ・ブランダーニ 」が『モナ・リザ』であると言う説の最大の根拠は、「ベアディス」と言う秘書官が、1517年にアンボワーズのクルー館訪問時に残した以下の記録です。

《1517年10月にクルー館を訪れた際に、レオナルド本人に3枚の絵画『フィレンツェの婦人』『聖アンナの膝に座った聖母子』『若い洗礼者聖ヨハネ』を見せてもらった。このうち『フィレンツェの婦人』はジュリアーノ・デ・メディチの依頼である。》

つまり本説では、『モナ・リザ』=「フィレンツェの婦人」=「ジュリアーノの愛人」と言う想定になります。

また、これは逆説的に本説の信憑性を高める考察ですが、モナ・リザが「リザ・ゲラルディーニ」や「イザベラ・デステ」などの既婚者をモデルとするなら、必ずこの時代では、手に指輪が描かれているはずです。

しかし、モナ・リザの手に指輪はなく、モデルは既婚者でない女性、つまり愛人をモデルにした可能性が高いと言う事になります。

本説の疑問点と問題点

フィレンツェを治めていた「ジュリアーノ」の愛人「パチフィカ・ブランダーニ 」を「フィレンツェの婦人(モナ・リザ)」とするのは、一見問題ありませんが、「ブランダーニ」は、ウルビーノ出身であるため、「フィレンツェの婦人」には当てはまらないと言う意見もあります。

また、女性好きで知られる「ジュリアーノ」には、他にも愛人が何人かいたため、他の愛人が『モナ・リザ』のモデルである可能性も否めません。

しかし、「フィレンツェの婦人」と言う条件に合致する愛人は見当たらない上、『モナ・リザ』の製作が開始されたとされる1503年〜1504年ごろ、20代の「ジュリアーノ」は、メディチ家衰退により、フィレンツェから追放されていました。

これにより、「ジュリアーノ」がいつどこで、レオナルドに『モナ・リザ』の製作を依頼したのかと言う新たな疑問も生じます。

仮に「ジュリアーノ」が「レオナルド」のパトロンとなった1513年以降に製作を依頼したとする場合、1点大きな問題が生じます。

1504年ごろに「ラファエロ・サンティ」が、レオナルドのアトリエで、実際に『モナ・リザ』を見て模写したと思われるスケッチが残されています。

ラファエロ・サンティ作 モナ・リザの模写
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このスケッチの存在により、少なくとも『モナ・リザ』は、1504年の時点では製作が開始されていたと考えられ、1513年以降にジュリアーノが依頼したと言う説には矛盾が生じます。

他方で、ジュリアーノが1513年以降にレオナルドに依頼した肖像画こそが現在の『モナ・リザ』であると主張する専門家も多数存在しています。

これは、ラファエロの模写と現在の『モナ・リザ』とでは、明らかにモデルの年齢が違うなど、相違点が多く見られるためです。

この場合、ラファエロが、1504年頃にレオナルドのアトリエで模写した肖像画は、『モナ・リザ』とは別の『リザ・ゲラルディーニ』の肖像画として、かつて存在していた(現在は消失した)可能性が出てきます。

上記の「リザ・ゲラルディーニの肖像画(1503年頃製作開始と仮定)」とルーブルの『モナ・リザ(1513年頃製作開始と仮定)』が、別に存在すると言う説は、研究者の間でも有力な見解の一つですが、考察が複雑化するため、本記事では敢えて深掘り致しません。

「リザ・ゲラルディーニ」から「ジュリアーノ・デ・メディチ」の愛人に書き換えられた説

フランスの光学研究者「パスカル・コット」氏が、ルーブル美術館と2004年より共同で行っていた最新技術(2億4000万画素の光学カメラを使用)の解析により、モナリザの下に別の女性が描かれている事を発見しました。

そして、その女性を最新技術を用いて再現してみると、現在のモナリザよりも全体的に14度右にズレた位置に、別の若い女性が浮かび上がってきました。

この発見を元に、パスカル氏は以下の様な大胆な説を唱えています。

《レオナルドは、1503年~1504年頃に「リザ・ゲラルディーニ」を夫の依頼で描き始めたが、何らかの理由で納品しなかった。その10年後、ジュリアーノ・デ・メディチから、息子のために、亡くなった母親(正妻ではない愛人)の肖像画を依頼される。レオナルドは手元にあった描きかけの「リザ・ゲラルディーニ」の肖像画の上に、ジュリアーノの愛人の肖像画を描いた。これが現在の『モナ・リザ』である》

この説が正しければ、2005年にハイデルベルクで発見されたメモ書きの内容も、「ヴァザーリ」や『ベアティス』の証言も全て辻褄があいます。

以下、2005年に発見されたメモ書きより

《レオナルド・ダ・ヴィンチは現在絵を描いており、それは「リザ・ゲラルディーニ」の妻の絵であった。(1503年10月)》

以下、ヴァザーリの記録より

《レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、彼の妻「リザ・ゲラルディーニ」の肖像画を描くことになった。だが4年間製作に励んだ末、未完成となった。いまこの絵画はフランス王の所蔵となり、フォンテーヌブロー宮にある》

以下、 ベアティスの記録より

《1517年10月にクルー館を訪れた際に、レオナルド本人に3枚の絵画『フィレンツェの婦人』『聖アンナの膝に座った聖母子』『若い洗礼者聖ヨハネ』を見せてもらった。このうち『フィレンツェの婦人』はジュリアーノ・デ・メディチの依頼である》

本説の疑問点と問題点

本説を真実とする場合、最初の依頼者であるリザの夫「フランチェスコ・デル・ジョコンダ」と、後の依頼者である「ジュリアーノ・デ・メディチ」のどちらにも、作品をなぜ納品してないのかと言う疑問が残ります。

また、他の専門家も、レオナルド作品は、制作過程で何度も手直しされており、「パスカル氏」が今回『モナ・リザ』の下に発見したのは、製作過程の下書きや描き直しレベルの痕跡に過ぎないと、この説を否定しています。

理想の母親像説

レオナルドは、産みの母「カテリーナ」とは幼い頃に生き別れ、育ての義理の母「アラビエーラ」とは12歳の頃に死別しています。

そのため、レオナルドが描く女性像の多くには、母親の姿を重ねていると言われており、『モナ・リザ』も、理想の母親像を描いた姿ではないかと考えられています。

20世紀の精神学者フロイトも、幼少期の生み母「カテリーナ」との離別が、『モナ・リザ』に影響を与えていると指摘し、謎の微笑みのモデルは、レオナルドの母親だったのではないかと考察しています。

実際に、母「カテリーナ」が夫を亡くした際に、ミラノにいるレオナルドを頼ってきた記録も残っており、母が亡くなるまで共に過ごしたとも言われています。

また『モナ・リザ』が黒い喪服の様な衣装を着ているのも、夫を亡くした母「カテリーナ」をイメージしているからとも言われています。

モナ・リザのモデルが、レオナルドの理想の母親像だとすると、大筋のストーリー以下の様になります。

レオナルドは1503年から1504年頃に、「リザ・ゲラルディーニ」の肖像画製作依頼を受けるが、何らかの理由で作品を納品できなかったか、作品を納品する必要がなくなった。

以後、レオナルドは手元に残った「リザ・ゲラルディーニ」の肖像画を、理想の母親像として描く様になり、死ぬまで手元に残し、筆を入れ続けた。それが現在『モナ・リザ』と呼ばれる絵画である。

本説の疑問点と問題点

モナリザのモデルが、レオナルドの理想の母親像である事を、直接的に示す有力な記録はありません。逆説的な考察と憶測に頼った推理が、この説の根拠となっています。

ただし、この説を支持する有識者も多く、彼らによって組み立てられた理論は決して的外れではありません。

ダ・ヴィンチの自画像説

『モナ・リザ』が、ダ・ヴィンチの自画像であると言う説は、米国のコンピューターアートの先駆者「リリアン・シュワルツ」が提唱したものです。

彼女は1991年にコンピュータを用いて、『モナ・リザ』と、赤チョークで描かれたレオナルドの自画像を反転させて重ね合わせると言う検証を行いました。

その結果、2枚の絵画は、目の下、眉毛、鼻、あごの位置などが、ピタリと一致したそうです。

モナリザとレオナルドの自画像の類似性検証画像
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本検証は、今でこそ画像加工ソフトなどを使用すれば、誰でも簡単にできる様な内容です。

しかし、まだコンピュータ(パソコン)が、一般的でなかった1990年代前半では、かなりインパクトがあり、当時は大きな話題となりました。

本説の疑問点と問題点

2枚の絵画の構図やサイズが同じだとしても、それが同じモデル(ダ・ヴィンチ)を描いたとする確実な根拠とはなりません。発想的には非常に面白いと思いますが、やや無理があります。

画家は無意識に自分自身に似た顔を描く習性があると言われており、『モナ・リザ』にも、その傾向が出ただけと考えられます。

また、検証に用いられた有名な「自画像」も、100%レオナルド作品であると、証明されている訳ではありません。

技法

レオナルドの手稿と肖像画

『モナ・リザ』は、レオナルドが死ぬ直前まで筆を入れ続けたと言われており、彼が芸術家として60年以上培ってきた技法の全てが注ぎ込まれています。

本項では、彼の技法の中でも「スフマート」「筆使い」「空気遠近法」の3点について詳しく解説いたします。

スフマート

モナ・リザ 顔の部分拡大写真

本絵画を幻想的な存在にしている大きな要因として、陰影の移り変わり部分に輪郭線がなく、異なる色調の境目同士がお互いに溶け込むように描かれている点があげられます。

そして、この表現を可能にしているのが、レオナルドが生み出した技法「スフマート」です。

イタリア語で「ぼやけた」「煙がかかった様な」などを意味する「スフマート」は、物体、空間、色調の境目となる部分に、薄い絵の具を何層も重ねていきます。そして、塗った部分を指の腹でこすってぼかし、輪郭線を陰影のみで表現する技法です。

レオナルドのスフマートは、キャリアの比較的後期に多用され始めた技法です。『モナ・リザ』では絵画全体にスフマートの描写を確認できますが、特に頬、鼻、唇など、顔部分に重点的に用いられています。

モナ・リザ 顔の部分拡大写真

レオナルドは、スフマートを行うにあたり、光沢を出す透明の油「グラッシ(光滑剤)」を通常よりも多く顔料に混ぜて、透明に近い絵の具を使用していました。

そして、光の効果を緻密に計算した上で、ミリ単位の薄い層を透明に近い絵の具で何層も重ね塗りしていきました。とにかく、納得いく状態になるまで「薄く塗る」→「こする」→「乾かす」を繰り返していきます。

最新技術を用いて『モナ・リザ』を部分的に分析すると、髪一本ほどの厚さの層が最大で15層もあったそうです。

当時は一つの薄い層を乾かすために、数週間から数ヶ月の期間が必要であったため、『モナ・リザ』の様に描くには、気の遠くなる様な時間と地道な作業が必要だったと考えられています。

寡作な画家として知られるレオナルドが、生涯で16点ほどしか作品を残さなかった事もうなづける事実です。

しかし、このレオナルド以外は決して試みない緻密な制作過程こそが、彼の作品の凄さであり、『モナ・リザ』が世界一の絵画として評価される所以でもあります。

また、以前にNHKで放送された「ダヴィンチ・ミステリー」で、X線を用いて非常に面白い実験を行っていました。

通常の絵画にX線を通すと、奥のカンヴァスに作品の輪郭が浮かび上がるのですが、レオナルドの作品だけは厚い層に阻まれて、輪郭がほぼ浮かび上がりませんでした。

一方で、同時期の他の画家(レオナルド以外の画家)の作品は、はっきりと輪郭線が浮かび上がっていました。

このX線による解析は、ある絵画がレオナルド作品であるか否かを判断する上で、非常に重要な手掛かりとなっています。

レオナルドの筆遣い

モナ・リザ 顔の部分拡大写真

『モナ・リザ』を、他の画家の絵画と比べると、筆跡がほとんどない代わりに指紋が多く残されているという不思議な特徴があります。

レオナルドがどの様な筆使いで作品を描いていたかについては確かな事はわかっていませんが、レオナルド研究の第一人者である「池上英洋」氏によれば、「レオナルドは筆を使用しないで指で描いていた。」もしくは「0.1mmにも満たない細い筆でドットを打つ様に描いていた。」などの可能性があるそうです。

確かに、指やミリ単位の細い筆で描いていたとするなら、彼の絵画に筆跡が残っていない事の説明がつきます。実際にレオナルド作品で描かれた人物の髪をアップで見ると、毛の一本一本が違う色で描かれているそうです。この様な描き方は、通常の筆ではまず不可能ですし、誰も真似できません。

また、『モナ・リザ』の肌は非常に透明感がある事で知られていますが、これはスフマートによって透明の薄い絵の具を何層も重ねているのに加え、指や0.1mmにも満たない細い筆で、ドット(点)を打つ様にミリ単位で細かく描いて言ったからだと言われています。

少し話はそれますが、下はあるデジタル写真を部分的に拡大したもので、色の異なる正方形が規則的に並んでいます。

ピクセル写真の部分拡大

拡大部分に見える小さな各四角形は「画素(ピクセル)」と呼ばれ、同じサイズでもこの画素の密度が濃いほど、解像度が高く綺麗な写真となります。

何が言いたいかと言いますと、レオナルドも、まるでデジタル写真を構成する「画素(ピクセル)」の様に、非常に細かい単位(恐らく0.1mmほど)で色を変えて、『モナ・リザ』を描いていたという事です。

流石に人間なので、最少単位の限界はあったと思いますが、常に目に映るままに描くため、「写実性」を限界まで追求したのが「レオナルド・ダ・ヴィンチ」でした。

そして、この『モナ・リザ』こそが、その集大成と言える作品です。

空気遠近法による背景

モナリザの背景の拡大画像

遠近法は、我々のいる立体的な空間(3次元)を、絵画の平面的な空間(2次元)に表現する技法です。ヨーロッパでは、13世紀の中頃から広く用いられる様になりました。

鑑賞者は、この遠近法によって、実際は平面の絵画の中に奥行きや立体感を感じることができます。

当然『モナ・リザ』でも「遠近法」は用いられていますが、レオナルドはこれを更に発展させ「空気遠近法」と言う独自の技法を生み出しました。

通常、現実の世界で、大気を通して何かを見ると、遠くの方が青みがかって霞んで見えます。そして、これを絵画でそのまま表現する技法が「空気遠近法」です。

レオナルドは、常に目に見えるものを、絵画で完全に表現したいと考えていました。

「空気遠近法」は、レオナルドのデビュー作である『受胎告知』などでも見られますが、彼がこの技法を、はっきりと意識して利用する様になるのは、キャリア中後期以降です。

モナ・リザの表情と謎の微笑

モナ・リザの微笑と表情全体が謎めいて見えるのは、不思議な風景の影響もありますが、それ以外にも様々な理由があります。本項では、その理由を部分的に解説していきます。

モナリザの視線と眉毛

モナ・リザの表情

レオナルドは、モナ・リザの右目と左目が、まるで別のものを見ているかの様に描き、敢えてその視線の向きを曖昧にしています。これにより、我々がどの角度から見ても、モナリザと目が合う様な不思議な感覚にとらわれます。

また、意外に気がつかない人も多いですが、モナ・リザには眉毛が描かれていません。これは、当時眉毛を抜く習慣があったためとだと言われていますが、後年に上塗りされてしまった可能性もあるそうです。

どちらにせよ、モデルの表情を、よりミステリアスにしている一つの要因になっています。

左右で異なる表情

モナリザの微笑みをミステリアスにしている最大の要因言われているのが、顔を左右半分にすると、左側だけが笑って見えると言うものです。

モナ・リザ 左右の表情

これは、レオナルドが意図的に、モナリザの右目と左唇で笑みを表現し、左目と右唇は通常の表情で描いているためです。

つまり、完全にモナリザの微笑と通常の表情を分けるとするなら、横半分ではなく、下の様にするのが正しいです。

モナ・リザ 左右の表情

上の写真では、通常の表情と微笑の表情が、より明確になりました。レオナルドはこの様に描く事が、女性を美しく神秘的に表現できると考えていたそうです。

徹底したリアリズムの追求

レオナルドは、人間の笑顔の表情が、口元のどの筋肉によって作られているかを、死体を解剖してまで調べあげたり、ぼかし技法「スフマート」で口元の輪郭線を廃して、限界まで人間のリアルな表情をモナ・リザで追求しました。

こう言った画家の絶えまいリアリズム精神こそが、モナリザの微笑を一層ミステリアスにさせている一つの要因と言えます。

微笑みに関する逸話

ヴァザーリの著書「芸術家列伝」によれば、レオナルドはモナ・リザを描く際、音楽家を呼んで絶えずモデルに音楽を聞かせたり、道化師に面白い話をさせるなど、モデルが常に心の平静を保てる様に努めていたそうです。

これは、娘を亡くして、悲しみの淵に沈んでいたモデル(この場合だとリザ・ゲラルディーニ)の表情を和らげるためであったと言われています。

モナリザに、カトリックの女性が葬儀で身につける「黒いヴェール」が描かれているのも、モデルが娘を亡くしたため(諸説あり)で、黒い服も喪服だと言う説があります。

そして、この様な状況下で生まれたのが、モデルのわずかな笑み=「微笑」と言う訳です。

最後にかなり異説ですが、モナ・リザの微笑は、猛烈な歯痛をごまかす偽装だったと言う説も存在しています。

そもそも革新的だった微笑の肖像画

モナ・リザの微笑が、必要以上に謎めいて語られるのは、それまで「無表情」が当たり前だった「肖像画」と言う絵画ジャンルに、「微笑み」と言う革新を持ち込んだ事が大きな要因です。

16世紀初期頃(レオナルド以前)までの肖像画を見ていただくと分かりますが、人物は皆ほぼ無表情です。

横向きに描かれた肖像画

なぜなら、この時代の肖像画は、その人物の威厳ある姿(美しい姿)を、後世に残す事が主たる目的だったからです。

笑った表情で肖像画を描くなど、モデルの威厳を損ねる以外の何者でありませんでした。

一方で、ルネサンス期の人々は、女性の微笑みを神秘的なものとして捉える一面がありました。

以上の様な価値観の時代において、女性の神秘的な微笑みを肖像画で表現した上、背景にはまるで太古の様な景色が広がっている。更に、今までにないほどリアルな描写で、謎の女性が描かれている訳ですから、如何にこの絵がミステリアスなものであったかをご想像頂けるかと思います。

逆に言えば、当時の価値観や時代背景を踏まえずに、直感的に『モナ・リザ』の「微笑み」を見ても、中途半端な笑い顔としか感じないかもしれません。

モナ・リザ関連のエピソード

本項では、『モナ・リザ』の面白エピソードを、やや真実味に欠けるものから、かなり真実味のあるものまで幅広くご紹介致します。

実は未完のモナリザ

モナ・リザの両手

レオナルドは『モナ・リザ』を生涯手元に残して、筆を入れ続けたと言われています。

『モナ・リザ』は、一見すると完成作品の様に見えますが、左右の手を見比べてみると、上の右手が、光と影の精巧な書き分けが出来ているのに対して、下の左手にはそれが見られない(やや立体感に欠ける)そうです。

一見すると分からないレベルですが、確かに左手の人差し指と中指に、どこか柔らかみに欠ける印象を受けます。レオナルドが完全主義者である事を考えると、確かに中途半端かも知れません。

『モナ・リザ』の製作年に関しても、書籍やWebサイトで、まちまちに記載されていますが、未完とするなら、1503年頃〜1519年(レオナルド没年)とするのが正しいと言えます

国王と皇帝に愛されたモナ・リザ

フランソワ1世とナポレオン1世の肖像画"

1530年、フランスの王室コレクションとなった『モナ・リザ』は、歴代国王の住まい「フォンテーヌブロー宮殿」に持ちまれました。

その際「フランソワ1世」は『モナ・リザ』を風呂場の壁に飾っていたと言う説があります。

現在の『モナ・リザ』のひび割れは、この時の湿気が原因とも言われています。

芸術を愛した「フランソワ1世」が、絵画を雑に扱うとは思えませんが、当時は湿気やカビが、絵画を劣化させると言う知識はありませんでした。

また、後年にフランス皇帝に即位したナポレオンが、最初に要求したのは、自身のチュイルリー宮の寝室に『モナ・リザ』を飾る事だったと言われています。

ナポレオンは、この絵を「リザ夫人」と呼び、大層お気に入りだったそうです。

モナリザの目に暗号が

フランソワ1世とナポレオン1世の肖像画"

2010年頃、イタリアのデジタルアートの研究者「シルヴァーノ・ヴィンセンティ」氏は、『モナ・リザ』の高解像度写真を拡大して分析したところ、両目にアルファベットと思われる文字を確認したと発表しました。

この分析調査は、ヴィンセンティ氏の同僚の1人が、絵画の目のシンボルに関する古本を偶然見つけた事がきっかけだったそうです。

発見された文字を、肉眼で確認するのは不可能ですが、モナ・リザの右目を拡大すると「LV」と言う文字が確認でき、この文字は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」のイニシャルを表すそうです。

また、左目には「B」と「S」の文字、もしくは「CE」と思われるイニシャルを確認できたそうです。

ヴィンセンティ氏によれば、このアルファベットは、モナリザのモデルを特定する上で、重要な手がかりとなるそうです。

しかし、本説に関する目ざましい成果はその後は報告されておらず、多くの研究者もこの説に関しては疑問を呈しています。

モナリザ盗難事件

モナ・リザ

1911年8月21日の早朝、ルーブル美術館である事件が起こります。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『モナ・リザ』が展示場所から、忽然と姿を消したのです。

当時のモナ・リザの展示風景

当時のモナ・リザの展示風景
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モナ・リザの展示場所の盗難後の風景

ルーブル美術館 モナ・リザ盗難時の写真
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当時は写真を撮る目的で、絵画を持ち出す事も多く、『モナ・リザ』が展示場所になくても、盗まれたとは誰も考えませんでした。

翌日、ルーブル美術館は通常どおり開館され、「ルイ・ベルー」と言う画家が『モナ・リザ』を模写しようとやってきます。

画家は、お目当ての絵画がない事に気がつき、警備員に『モナ・リザ』の事を尋ねます。

警備員が貸し出し状況を確認すると、館内は一転大騒ぎ、この時ようやく『モナ・リザ』が盗まれた事に気がつきます。なんと丸一日以上、誰も盗難に気がつかなかったのです。この事件により、ルーブル美術館は1週間の閉館を余儀なくされます。

盗難のニュースは山火事のように瞬く間に世界中に広まり、日本(明治44年)でも「名画の盗難」として、新聞に取り上げられました。

一面でモナリザ盗難を伝えるフランスの新聞

モナ・リザの盗難を伝える紙面
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フランス警察は大規模な捜査チームを編成し、ルーブルの職員や、出入りしていたガラス職人などの関係者を徹底的に取り調べますが、犯人と思しき人物は見つかりませんでした。

そんな中、ある画家の家に、盗まれたルーブル美術館の作品があると通報が入ります。すぐに警察は、その画家の家を家宅捜査し、盗品と思われる美術品を見つけ出します。

なんと、この時に疑いをかけられた画家こそ、 当時29歳の『パブロ・ピカソ』です。

ピカソは創作の資料として、盗品の像を購入していた事は認めましたが、『モナ・リザ』盗難への関与は完全否定。取り調べ後に疑いは晴れ、無事釈放となります。

捜査が一向に進展しない中、犯人探しに莫大な懸賞金がかけられますが、2年経過しても何の手がかりも得られませんでした。

モナリザは永遠に行方不明になるかに思えた1913年11月(盗難から2年3ヶ月後)、『モナ・リザ』を2億円(令和現在の価値)で売りたいと、フィレンツェの古美術商「ゲーリー」の元に手紙が届きます。手紙の差し出し人はダ・ヴィンチと記されていました。

ゲーリーは、ウフィツィ美術館の館長を伴い、指定された「ホテルトリポリ(現:ホテルジョコンダ)」の2階の一室にて、手紙の送り主と接触を試みます。

恐らくこの時点で『モナ・リザ』が本物であるか否かは、半信半疑だったと思われます。

ホテルの部屋に入り、手紙の送り主がトランクの二重底から絵画を取り出すと、2人は一瞬にして、それが本物の『モナ・リザ』であると確信します。

この時、絵画を取り出した男は、ルーブル美術館に出入りしていたイタリア人のガラス職人「ヴィンチェンツォ・ペルージャ」と言う人物でした。

ヴィンチェンツォ・ペルージャ
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彼は、捜査初期で警察に取り調べと家宅捜査を受けながら、疑いなしと判断されていました。これはイタリア警察が、この男に対する指紋照合を怠ると言う大失態をおかしていたからです。

彼は美術館の休館日を狙って本絵画を盗みだし、自分のアパートに2年間も保管していました。

当時、ルーブルの警備員は高齢者が多く、居眠りしている事も普通にあったそうです。更に『モナ・リザ』は小さい絵画であったため、壁から外した後は、上着に包んで簡単に持ち出せたそうです。

結局「ペルージャ」は、取引の後日にイタリア警察に通報され、敢えなく御用となります。

下の写真は、モナ・リザを取り戻し、ウフィツィ美術館にて、絵画を点検している時の様子です。

取り戻したモナ・リザを鑑定する様子
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モナ・リザの側にいるヒゲの男性は、犯人との取引に同行したウフィツィ美術館の館長「ジョヴァンニ・ポッジ」です。

逮捕された「ペルージャ」ですが、懲役6ヶ月とかなり軽い判決が下されました。

彼の犯行動機は、絵画をレオナルドの故郷であるイタリアに返還すべきだと言う愛国心と、移民の彼を日頃から虐げていたフランス人への復讐でした。当時のイタリアでは、『モナ・リザ』は、ナポレオンによってフランスに持ち去られたと考える人が少なくなかったそうで、「ペルージャ」は英雄扱いされ、一躍時の人となりました。

参考までに、実際に『モナ・リザ』を、イタリアからフランスに持ち出したのは「ナポレオン」ではなく、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」自身です。また、犯人「ペルージャ」のひ孫にあたる人物「パオロ・ペルージャ」は、現在もイタリアに在住しているそうです。

さて、無事に『モナ・リザ』が、ルーブル美術館に返還されると、作品の地名度は一気に高まり、来場者が殺到します。事件前後で、世界中の新聞や雑誌に、盗難事件が取り上げられていたのですから、当然と言えば当然の結果です。

下の写真の紙面は、1914年1月 ルーブル美術館にモナ・リザが戻って来た時の様子を伝えています。

盗難されていたモナ・リザがルーブル美術館に戻ってきた時の様子
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『モナ・リザ』は、巨匠「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の作品として、フランス国王やナポレオンが切望したほどの傑作である事に疑いはありません。

しかし、盗難以前までは一般大衆に対するモナリザの知名度は、決して高いとは言えず、数あるルーブル作品の一つに過ぎませんでした。

現在の『モナ・リザ』は、世界一貴重な絵画として、常に警備員の監視の下、特殊なガラスケースに入った状態で展示されています。

モナ・リザの間

モナリザの年表と来歴

本項では『モナ・リザ』の来歴を、略歴年表などを通してご紹介します。

モナ・リザの来歴年表

  • 1500年
    マントヴァ公国にて「イザベラ・デステ」の下絵(モナリザの下絵説あり)を描く
  • 1503〜04年頃
    モナ・リザの製作開始
  • 1503年10月
    レオナルドが、リザ・デル・ジョコンド(ゲラルディーニ)の肖像画を描いているとの記録あり
  • 1504年頃
    ラファエロがモナ・リザを模写したと思われるデッサンを残す
  • 1517年
    レオナルドが、フランソワ1世の招きでフランスのアンボワーズのクルー館へ移住。モナ・リザを持ち込む
  • 1517年10月
    レオナルドが、枢機卿の秘書官「ベアティス」に「フィレンツェの婦人の肖像画(恐らくモナリザ)」を見せる
  • 1519年5月
    レオナルドがアンボワーズで死去。モナ・リザを弟子の「メルツィ」に相続(サライに相続説もあり)
  • 1520〜40年頃
    フランソワ1世がモナ・リザを買い取り、フォンテーヌブロー宮へ持ち込む
  • 1542年
    モナ・リザがフォンテーヌブロー宮の浴室広間に飾られている記録あり
  • 1625年
    フォンテーヌブロー宮にモナ・リザがあったと記録あり
  • 1790年頃
    モナ・リザがヴェルサイユ宮殿へ
  • 1796年
    モナ・リザがルーブル宮殿で公開される
  • 1800年頃
    ナポレオン1世により、モナ・リザがチュイルリー宮殿へ持ち込まれる
  • 1804年頃
    ナポレオン1世により、モナ・リザがルーブル美術館へ持ち込まれる
  • 1911年8月
    モナ・リザの盗難事件発生
  • 1913年11月
    モナ・リザ盗難の犯人逮捕
  • 1914年1月
    モナ・リザがパリのルーブル美術館に帰還
  • 1939年頃
    第2次世界大戦中、モナ・リザをルーブルから、アンボワーズ城やモンタル城に避難
  • 1956年
    観光客の1人がモナ・リザに酸を浴びせ、画面下部を損傷
  • 1956年12月
    ボリビア人青年がモナ・リザに石を投げつけ、画面左下部の顔料が剥落。
  • 1957年頃
    モナ・リザのガラスを防弾仕様に変更
  • 1963年
    モナ・リザをアメリカのワシントンとニューヨークで展示
  • 1966年
    モナ・リザを、現在の展示場所であるルーブル美術館内の「モナ・リザの間」に移設
  • 1974年4月
    モナ・リザを日本の上野とソ連のモスクワで特別展示
  • 1992〜95年
    モナ・リザの間の改修に伴い、モナ・リザを同館内のグランド・ギャラリーに期間限定で移設
  • 2001〜05年
    モナ・リザの間の改修に伴い、モナ・リザを同館内の広間「salle rosa(バラの間)」に期間限定で移設
  • 2005年
    モナ・リザを、最適な温度と湿度を保つ特殊な保護ガラスケース内に入れて展示開始。
  • 2019年2月〜10月
    モナ・リザの間の改修に伴い、モナ・リザを同館内の広間「ルーベンスの間」に期間限定で移設

日本にやってきたモナリザ

かつて、田中角栄総理時代の1974年4月に、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』が来日した事がありました。

『モナ・リザ』は約2ヶ月間に渡り、上野の「東京国立博物館」で展示され、150万人以上の来場数を記録。連日長蛇の列だったそうです。

『モナ・リザ』がルーブル美術館に展示されて以後、フランス国外から正式に持ち出されたのは、1964年のアメリカと、1974年の日本とモスクワ時だけです。

参考までに、『モナ・リザ』の来日に際して、日本はフランスへの見返りとして、原発の原料である濃縮ウラン購入を約束しました。

モナ・リザの模写作品

モナ・リザの模写作品

『モナ・リザ』には、複数の模写やコピーが存在しており、その数は70点以上と言われています。本項では模写の中でも、代表的なものをいくつかご紹介致します。

プラドのモナ・リザ

プラドのモナ・リザ
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プラドのモナ・リザと呼ばれる本作は、スペイン マドリードのプラド美術館の所蔵作品である事から、この名で呼ばれています。

当初、本作の背景は真っ黒かつ、ルーブルの『モナ・リザ』よりもモデルが若く描かれている事から、数ある模写作品の一つと考えられていました。

ところが、表面の洗浄を行なったところ、ルーブルの『モナ・リザ』に酷似した背景が浮かび上がってきました。

更に、ルーブルとプラダのモナ・リザを、赤外線による最新技術鑑定にかけた結果、頭の輪郭線と肘掛けの部分に、大きな共通点が発見されました。

これに伴い、「プラドのモナ・リザ」は全く関係のない第三者が手がけた模写レベルではなく、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」本人が、何らかの方で関わっている可能性が浮上してきました。

しかし、更なる鑑定が進んだ段階で、「プラドのモナ・リザ」の下顎あたりに、筆跡が見つかりました。

本記事の「技法 - レオナルドの筆使い」の項で触れた様に、レオナルドの作品は筆跡がなく、代わりに指紋が多いと言う特徴があります。

つまり、筆跡がある=レオナルド作品かは疑わしいと言う事になります。

更に「プラドのモナ・リザ」には、本物にはある肌の透明感がない事が決定打となり、レオナルドの弟子の誰かが、師匠の作品を模写したものではないかと言う結論に至りました。

本作は現在も、マドリードの「プラド美術館」で鑑賞する事ができます。

アイルワースのモナ・リザ

アイルワースのモナリザ
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「アイルワースのモナリザ」と呼ばれる本作は、1913年に芸術家でコレクターの「ヒュー・ブレイカー」によって、作品価値を見いだされ再発見されました。

彼の自宅が、ロンドン郊外のアイルワースにあった事から「アイルワースのモナ・リザ」と呼ばれる様になりました。

「ヒュー・ブレイカー」は、通常の専門家にはない芸術家独自の感性で、「アイルワースのモナ・リザ」に、非凡さを感じとったそうです。

ブレイカーは、専門家の有力な見解を過去に覆した実績があり、その目利きには定評がありました。

彼は「アイルワースのモナ・リザ」がレオナルド本人の作品であるとし、現在のルーブルの『モナ・リザ』の初期バージョンとして描かれた可能性があると主張しました。

彼の説で言えば、1503年頃からリザ・ゲラルディーニ(リザ夫人)を描いたのものが「アイルワースのモナ・リザ」で、ルーブルの『モナ・リザ』は、ジュリアーノ・デ・メディチの愛人か他の誰かをモデルにして、1513年頃より描かれたと言う事になります。

しかし、ブレイカーが1936年に既に亡くなっている事や、彼の説に異論を唱える専門家も多かったため、「アイルワースのモナ・リザ」が、レオナルド作品であると言う事実は証明されていません。

現在の本作は、ある個人か団体が所有しており、一般には公開されていません。

裸のモナ・リザ(モナ・ヴァンナ)

裸のモナ・リザ(モナ・ヴァンナ)
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「裸のモナ・リザ」又は「モナ・ヴァンナ」と呼ばれる本作は、厚紙に黒チョークで描かれた肖像画(下絵)です。

本作が描かれたのは、1514〜1516年頃とされており、1862年からフランスのシャンティイにある「コンデ美術館」に保管されています。

作中のモデルは、両性具有的に描かれており、たくましい腕を有する一方で、胸には女性的な膨らみが見られます。

これ以前まで、絵画における裸体は、神話を描く場合にのみ許される特別な表現でした。

しかし、本作が多くの画家に模写された事で、現実女性を裸体で描くと言う絵画スタイルが、フランスで新たに確立されます。

本作の大きさは、高さ74.8cm、横56cmと、ルーブルの『モナ・リザ』とほぼ同じサイズである事や、手と体の位置がほぼ同じである事などから、2作には何らかな関連性があると考えられてきました。

2017年に入り、ルーブル美術館の研究員による「裸のモナ・リザ」のX線分析が行われました。

その結果、研究員は「裸のモナ・リザ」は、ルーブルの『モナ・リザ』の試作として、レオナルド自身が描いた可能性があると結論づけました。

しかし、この見解に疑問を呈す専門家も多く、レオナルドの指導の下で、弟子が『モナ・リザ』の後に製作したと言うのが、現在は最も有力な見解となっています。

他方で、左利きの画家(つまりレオナルド)が手を加えた痕跡や、スフマートの跡も見られ、レオナルドも部分的に手を加えている可能性が高いと考えられています。

また、この「裸のモナ・リザ」の下絵を元に、後年に仕上げたと思われる作品が約15点ほど存在しており、特に有名なのが、エルミタージュ美術館所蔵のものになります。

エルミタージュ美術館 - 裸のモナ・リザ {{PD-US}} - This photo is public domain

モナ・リザの見学について

「モナ・リザ」の見学情報をQ&A形式でご紹介致します。

モナ・リザの見学は誰でも可能ですか?

はい、「モナ・リザ」の鑑賞は国籍を問わず個人でも可能です。

モナ・リザはどこで閲覧・鑑賞できるのか?

フランス パリの中心地にあるルーブル美術館 1階ドゥノン翼 第711室の常設展示エリア「モナ・リザの間」にて、特殊ガラスケースに入った状態で展示されています。

モナ・リザの間

現地に足を運びチケットを購入すれば、誰でも鑑賞可能ですが、他の絵画の様に目の前まで接近する事はできず、だいたい半径2~3mぐらい離れた位置で鑑賞する形になります。

モナ・リザの見学に予約は必要ですか?

はい、「モナ・リザ」を展示しているルーブル美術館は、チケットの事前予約を極めて強く推奨しております。必ず事前にオンライン予約する事をお勧め致します。現地オフィスでの予約も不可能ではありませんが、最悪の場合、1〜2時間待ちもあり得ます。また、夏場のピークシーズンは入場すらできない場合があります。

予約用の日本語サイトはありますか?

はい、「GET YOUR GIDE」というサイトの「パリ:ルーブル美術館 時間指定入場チケット」ページからチケット予約を行えば、手数料なしで日本語のページから優先入場予約が可能です。入力項目も公式サイトより少ないので簡単に予約を完了できます。また、プラスで3€支払うと、キャンセルを24時間前まで無料にするオプションもあります。

ルーブル美術館は年中無休ですか?

いいえ、毎週火曜日が定休日となります。

ルーブル美術館の観光情報

営業時間
  • ・9時〜18時(月、木、土、日)
  • ・9時〜21時45分(水、金)
休館日毎週火曜日
チケット料金
  • ・15ユーロ(現地購入)
  • ・17ユーロ(オンライン購入)
予約方法オンライン、現地予約
公式予約HP(英語)https://www.ticketlouvre.fr//louvre/b2c/index.cfm/home
住所Musée du Louvre, 75001 Paris, France

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