レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 – 幼少期から晩年まで徹底解説

本記事では、レオナルド・ダヴィンチの生涯を、生い立ちから晩年まで詳しく解説いたします。

レオナルド・ダヴィンチの肖像画とラ・ベル・フェロニエール

フィレンツェ、ミラノ、ローマ、フランスなどを渡り歩いたレオナルドの痕跡を、時系列で辿っていきます。

レオナルドの生い立ちと幼少期

レオナルド・ダ・ヴィンチの出世は1452年4月15日、公証人である父「セル・ピエロ」と、農家の娘である母「カテリーナ」の嫡子(愛人の子)として、フィレンツェ近郊の田園地帯「ヴィンチ村」で生まれました。ヴィンチ村からフィレンツェまでは、馬で日帰りできる40kmほどの距離です。

ヴィンチ村の景観

ヴィンチ村
View from the Leonardo da Vinci Museum in Vinci, Tuscany} by  MrBrickALot  is licensed underCC BY 3.0

村一番の家柄である父セル・ピエロは、レオナルドが生まれたわずか数ヶ月後に、16才にも満たない別の女性「アルビエラ・アマドリ」と結婚してしまいます。レオナルドの実母「カテリーナ」と婚姻関係を持たなかったのは、身分の違いのためと言われています。

レオナルドは5歳頃まで実母の家で暮らしますが、父と最初の正妻アルビエラの間に子が出来なかったため、以後は父に引き取られて育ちました。

現存するダ・ヴィンチの生家

ダ・ヴィンチの生家"La galería nacional de arte" by  Axel41  is licensed underCC BY 3.0

父のピエロはかなりの女性好きで知られ、生涯で4人の妻を娶り12人の子を儲けました。お世辞にも子煩悩と呼べる人物ではありませんでしたが、公証人として収入に恵まれていたため、長男のレオナルドが衣食住で困る様な事はありませんでした。

多忙な父に変わり、幼少期のレオナルドの面倒を見たのは、叔父の「フランチェスコ」という人物で、レオナルドを非常に可愛がっていたと言われています。

幼少期のレオナルドに関する記録は多くありませんが、緑豊かな自然に囲まれ、この頃から絵や素描を描いて過ごしていたと言われています。レオナルドの驚くほど正解な自然描写と観察眼はこの頃に養われたのではないでしょうか。

伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリの書に興味深いエピソードが残されています。少年時代のレオナルドが描いた素描に芸術的才能を感じた父ピエロは、知人で芸術家の「アンドレーア・デル・ヴェロッキオ」にその素描を見せます。すると、ヴェッロキオはすぐに息子を連れてくる様に言ったそうです。

ヴェロッキオ工房時代(第1フィレンツェ時代)

ヴェロッキオの肖像画ヴェロッキオの肖像画

レオナルドの芸術家としてのキャリアは、1466年頃にフィレンツェの人気画家「ヴェロッキオ」の工房に住み込みで弟子入りした事が始まりです。年齢で言うとレオナルドが13〜14歳の頃です。

ヴェロッキオ工房は、「ペルジーノ」や、フィレンツェで一時代を築いた画家「ボッティチェリ」なども所属(客人という説も)していた名門です。

この時代には、芸術家と言う職業はなく、工房と言えばなんでも屋の様な存在でした。絵画や彫刻、祭壇画はもちろんですが、食器などの日用品製作や家具の修理まで幅広く行っていました。

工房に入門した弟子は、雑用や師のアシスタントをしながら、食事や少額の賃金を与えられます。そして、師の作品を模写するなどして、芸術家として腕を磨いていきます。もちろん、レオナルドも例外ではありませんでしたが、かなり早い段階で重要な仕事を任せられ、最終的には一番弟子のポジションまで登りつめています。

師のヴェッロキオは、彫刻を最も得意とする芸術家でしたが、絵画の腕前も一流でした。下画像はヴェッロキオが1470年〜1480年頃に手がけた絵画「トビアスと天使」です。

トビアスと天使 - ヴェロッキオ作

向かって右側のトビアスが持つ魚は、レオナルドが手がけた可能性があると言われています。

また、現在もベネチアに残るブロンズ製の「バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像」もヴェッロキオの作品です。

バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像
Statue of Bartolomeo Colleoni by  G.dallorto

キャリア中期以降のレオナルドは騎馬像製作に強い意欲を見せますが、この騎馬像制作に関わっていた事が少なからず影響している事は間違いありません。

レオナルドは、工房に入門してら6年ほどで親方資格を取得し画家組合に加入します。これは一人立ちした画家として、収入を得る最低限の資格を得た事を意味します。しかし、レオナルドは助手の仕事と個人の仕事を並行しながら、10年近くヴェロッキオ工房に留まりました

10年間の下積みは、同時代の芸術家たちと比べても結構長めの期間となりますが、経済的な安定を考慮して長く工房に留まったと考えられています。

彼の画家としての実質的なデビュー作は、1472年の工房在籍時に20歳で着手し、1475年に完成させた「受胎告知」です。

受胎告知(レオナルド作 - 1472~1475年頃)

大天使ガブリエルが、聖母マリアにキリストを身籠った事を伝える聖書の一場面を描いた作品。

受胎告知 - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

更にこの時期に師の助手として絵画「キリストの洗礼」の製作にも携わっています。

キリストの洗礼(ヴェッロキオ作 - 1470~1475年)

レオナルドは向かって左側の天使一体と背景の一部を手掛けました(描いた箇所には諸説あり)。

キリストの洗礼 - アンドレア・デル・ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチ作(1470-1475年)

寡作と遅筆で知られるレオナルドですが、この時期は比較的多くの作品を残しています。受胎告知を完成させた同年には「カーネーションの聖母」と呼ばれる作品も仕上げています。

カーネションの聖母(レオナルド作 - 1475年頃)

聖母や赤子の体が機械的で、レオナルド単独作品ではなく、部分的に工房の同僚たちの手が加わっていると言われています。

カーネーションの聖母 - レオナルド・ダ・ヴィンチ作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

1478年頃には、2点の聖母子像に着手したと言う記録が残っており、「ブノワの聖母」「猫の聖母(消失)」と呼ばれる2作がそれに該当すると考えられています。

ブノワの聖母(レオナルド作 - 1478~1480年頃)

「ブノアの聖母」という作名は、20世紀前半にロシアの建築家「レオン・ブノア」が本作を所蔵していた事に由来しています。


ブノワの聖母 - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

更に1478~1480年頃にかけては、「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」も手がけています。

ジネヴラ・デ・ベンチの肖像 (レオナルド作 - 1478~1480年頃)

モデルは、大商人でメディチ家との関わりも深かったアメリゴ・デ・ベンチの娘「ジネヴラ」という人物です。


ジネヴラ・デ・ベンチの肖像 - レオナルド・ダ・ヴィンチ作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

理由や経緯は分かっていませんが、絵画の下部分が切り取られてしまっております。

未完の大作「東方三博士の礼拝」と「聖ヒエロニムス」

これまでレオナルドが手がけた作品は、中規模商人層などからの個人依頼がメインでしたが、1481年に父の伝手で大きな仕事が舞い込みます。

その依頼内容は、サン・ドナート・ア・スコペート修道院の一辺2.5m近くもある巨大祭壇画を製作するというものでした。

レオナルドは「東方三博士の礼拝」という伝統的なテーマーで作品製作を開始しますが、この時結んだ契約はお世辞にも好条件とは言える内容ではありませんでした。

画材などの必要経費も全てレオナルド持ち、期間中は他の仕事を引き受けてはいけない、報酬も現金ではなく土地で支払われるなど、かなりの制限がありました。結局レオナルドは、下絵だけをほぼ仕上げた状態で「東方三博士の礼拝」の製作を中断してしまいます。

東方三博士の礼拝(レオナルド作 - 1481〜1482年)

新約聖書の物語「東方三博士の礼拝」を主題にした未完の作品。東方よりベツレヘムの星に導かれてやってきた三博士が、聖母が抱く幼子イエスに礼拝する場面が描かれています。

東方三博士の礼拝 - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

最終的には、レオナルドに代わって本件を引き継いだ「フィリッピーノ・リッピ」が同名で作品(画像下)を完成させ、祭壇画として設置されました。

東方の三博士 - フィリッピーノ・リッピ作

レオナルドが「東方の三博士」の作業を中断した理由に関しては、報酬が土地であったため、途中で材料費などの資金繰りが厳しくなった事などが影響しています。または、依頼者側がレオナルドの革新的な作風に及び腰になり、作業を中止させたと言う説もあります。

レオナルドはこの「東方三博士の礼拝」と同時期に、「聖ヒエロニムス」という作品にも着手しています。

聖ヒエロニムス(レオナルド作 - 1480~1482年頃)

キリスト教の聖職者で4世紀に実在した人物「聖ヒエロニムス」を主題にした絵画。本作に関する記録はほとんど残っていませんが、随所の特徴が明らかにレオナルドのそれと一致しており、間違いなくレオナルド作とされている未完作品です。

聖ヒエロニムス - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

レオナルドは、この「聖ヒエロニムス」と「東方の三博士」の2作を未完にして以降、作品を完成させずに放り出す事が多くなっていきます。

一説では、ある時から筆を持つと、手の震えが止まらなくなっていた事が大きく影響していると言われています。

フィレンツェからミラノへ

フィレンツェとミラノ

画家としてフィレンツェではそれなりに名の通ったレオナルドでしたが、現在の自分には満足していませんでした。また、作品を完成させる事に執着しなかったため、パトロンのメディチ家や他の依頼者からも信頼を失いつつありました。

更に1481年には、現在のバチカン市国にあるシスティーナ礼拝堂の壁画製作選考に漏れており、芸術家としては完全に行き詰まっていました。

実際にレオナルドがフィレンツェを去った本当の理由は定かではありませんが、この様な状況に息苦しさを感じ、フィレンツェではこれ以上の飛躍は望めないと考えたのでないでしょうか。そして、1482年末か翌年早々にレオナルド(30歳)は、フィレンツェを後にしてミラノへと向かいます。

この頃に着手していた「東方三博士の礼拝」は未完のまま友人に預ける形となりました。

レオナルドの自薦状

レオナルドはミラノへの出発に先立ち、当時ミラノ公国の実質的支配者「ルドヴィーコ・スフォルツァ」に、自分を売り込むための自薦状を送っていました。

興味深い事に、自薦状の内容は芸術家としての売り込みがメインではなく、主に軍事技術者や兵器製作者としてレオナルドが活躍できると言うものでした。

なぜなら、この時代は国家同士の争いが絶えず、ミラノ公国も常に隣国の脅威にさらされていたからです。レオナルドもその様な情勢を踏まえ、最も訴求力の高いアピール方法を選択したと言う訳です。

もちろん、レオナルドの最大の目的は「ルドヴィーコ」をパトロンとして芸術に打ち込む事にあったため、自薦状の最後に、芸術的才能を売り込む事も忘れませんでした。

また、この頃のルドヴィーコは、父の記念騎馬像を製作できる芸術家を探していました。レオナルドはその騎馬像製作にも強い関心があり、自薦状の最後に「ブロンズの騎馬像の製作もできます。これはお父上並びにミラノの名門スフォルツァ家の記念として不滅の栄光になると存じます」と記しています。

レオナルドの自薦状は全部で10項目記載されていましたが、そのうち軍事に関する内容が9項目、残りの1項目だけが芸術に関するアピール内容だったそうです。

この自薦状が功をそうしたのかは分かりませんが、レオナルドはルドヴィーコに軍事技師として採用されます。また、当時のメディチ家の当主「ロレンツォ・デ・メディチ」も、騎馬像の製作者としてルドヴィーコにレオナルドを強く推薦したと言われています。

ミラノ公国時代

15世紀後半のイタリア半島は一国統治ではなく、ベネチア、ミラノ、フィレンツェなど、それぞれが独立国家として国を治めており、その中でも「ミラノ公国」は特に勢いがありました。

当時のミラノは、運河の恩恵により交易が盛え、六万人もの労働者がウールやシルクの生産に従事し、人口は12万人にも上ったとされます。そして、このミラノ全土を実質的に支配していたのが、レオナルドの雇い主である「ルドヴィーコ・スフォルツァ(画像下)」でした。

ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

ルドヴィーコは抜け目ない人物で、先代ミラノ公で兄の「ガレアッツォ・スフォルツァ」が暗殺された後、その息子「ジャン」にミラノ公の称号は譲りましたが、権力は完全に掌握していました。

レオナルドはミラノでそれなりの待遇で迎えられましたが、晩餐会好きのルドヴィーコは、主に晩餐会の総監督や舞台装置、衣装デザインの製作と言った本業以外の業務をレオナルドに命じました。

しかし、レオナルドは持ち前の万能さを発揮し、見事に期待に応えていきました。中でも「天国の祭典」と呼ばれる催しは、特に大成功を収め、レオナルドが手がけた舞台装置のスケッチは現在も残されています。

一方でこの頃のレオナルドは、筋肉や目の仕組みの研究など、人体の神秘の探求や解剖学に多くの時間を費やしていました。地下室に運びこんだ死体を直接解剖して研究していたとも言われています。有名なダヴィンチ手稿と呼ばれる彼の研究をまとめたノートもこの頃から徐々に書き始められました。

ダ・ヴィンチ手稿

心臓のスケッチなどは、現代の医者も驚くほど正確に描かれているそうです。

もちろん、軍事技師としての兵器考案も行いないながら、合間をぬって芸術活動も行っていました。

巌窟の聖母にまつわるトラブル

レオナルドがミラノに移住してから1年ほどたった1483年頃、ミラノ信心会が、サン・フランチェスコ・グランデ教会の礼拝堂に飾るための祭壇画を、レオナルドに依頼します。この時に手掛けた作品は現在「岩窟の聖母(ルーブル版)」と呼ばれています。

岩窟の聖母 -ルーブル版(レオナルド作 - 1483~1486年頃)

作中では聖母マリアを中心に、まだ幼児のイエス・キリスト(右手側)が右手を上げ、洗礼者ヨハネ(左手側)に祝福を与える瞬間が描かれています。

岩窟の聖母(ルーブル版) - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

レオナルドは本作を1483年から1486年にかけて製作したとされていますが、ミラノの宮廷画家「デ・プレディス兄弟」と共作したと言う説が近年では有力となっています。

どちらにせよ、レオナルド主導で大部分を彼が手がけた事に間違いはなく、巌窟の聖母はレオナルド作とするのが自然です。完成後、本作は大評判となり、軍事技師として雇われたレオナルドは画家としても一定の地位を築きました。

しかし、作風が当時としてはかなり挑戦的であったため、依頼主の「ミラノ信心会」は受け取りを拒否します。この件は20年以上に渡る裁判沙汰となり、後にレオナルドは穴埋めとして、全く同じ構図で別バージョンの「岩窟の聖母」を描かされる羽目となります。

岩窟の聖母 -ロンドン版(1495〜1508年)

既に本件への意欲を失っていたレオナルドは、この「ロンドン版 岩窟の聖母」に関しては、ほぼ全ての作業を「デ・プレディス兄弟」に委ねました。

岩窟の聖母(ロンドン版) - レオナルド・ダ・ヴィンチ作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

スフォルツァ騎馬像の製作

ミラノ滞在から6年目の1488年、ルドヴィーコは遂にミラノ公国を築いた父「フランチェスコ・スフォルツァ」のブロンズ騎馬像の製作をレオナルドに命じます。

ブロンズの騎馬像製作は、10年以上前から挙がっていた長年の懸案事項でしたが、高さ6m以上もあるブロンズ製の騎馬像を完成できる芸術家はレオナルド以前にはいませんでした。

間違いなく後世に残るであろうこの大作に、レオナルドは並々ならぬ意欲を燃やします。

早速レオナルドは片っ端から馬をスケッチして莫大な量の下絵を描きました。当初、レオナルドは後ろ足で立つ馬上のスフォルツァが敵を倒すポーズを考案しました。

スフォルツァ騎馬像のスケッチ{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

しかし、高さ6m以上もあるブロンズ製の騎馬像を後ろ足だけで立たせる事は理論的に難しく、レオナルドは構図を変更せざるを得ませんでした。最終的には、レジソーレと呼ばれる古代の騎馬彫刻を参考に、現実的な馬のポーズを考案しました。

スフォルツァ騎馬像のスケッチ

依頼主のルドヴィーコは、短期間で騎馬像を完成させよと厳命していたにも関わらず、レオナルドに騎馬像製作以外の様々な仕事を申し付けました。その中にミラノ大聖堂のドーム部分の設計もありましたが、レオナルドの案は当時の技術では実現が難しかったため、採用されませんでした。

更に1489年の夏には、スフォルツェスコ城の壁面装飾を命じ、レオナルドの騎馬像製作は中々進行しませんでした。

騎馬像の作業進行の遅れにしびれを切らしたルドヴィーコは、フィレンツェの支配者「ロレンツォ・デ・メディチ」に、新たな芸術家の派遣を依頼します。

この手紙の内容を耳にしたレオナルドは大きく落胆し、一度はミラノを離れようと考えますが、新たな芸術家が見つからなかったため、この地に留まりした。

そして、1490年に騎馬像の製作は再開され、3年後には実物大の模型が公開されます。この模型は絶賛され評判となりますが、本物の騎馬像を完成させるには90トン以上ものブロンズが必要でした。

しかし、この時期のミラノ公国はフランスの侵略に備える必要があり、ほとんどのブロンズは大砲の材料として使用され、レオナルドの騎馬像製作は作業の中断を余儀なくされます。

三枚の肖像画

レオナルドは騎馬像製作などと並行して、ミラノ滞在中に3枚の肖像画「若い音楽家の肖像」「白貂を抱く貴婦人」「ラ・ベル・フェロニエール」を手がけました。

若い音楽家の肖像(レオナルド作 - 1483〜1490年頃)

本肖像画のモデルは、ミラノ公「イル・モーロ」であると言う説や、ミラノ大聖堂の聖歌隊長「フランキーノ・ガッフリーオ」であると言う説など様々です。体の部分などが明らかに未完の状態で、工房の共作、もしくはレオナルド作ではないと言う説も未だに根強く残っています。

音楽家の肖像

白貂を抱く貴婦人(レオナルド作 - 1490年頃)

本作のモデルについては諸説ありますが、ミラノ公「イル・モーロ」の愛人だった「チェチリア・ガッレラーニ」である言う説でほぼ間違いないとされています。作中でモデルが抱えている動物は「白貂(しろてん)」で、ギリシャ語では「ガレー」と呼ばれます。

白貂を抱く貴婦人  - レオナルド・ダ・ヴィンチ作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

ラ・ベル・フェロニエール (レオナルド作 - 1490〜1497年)

モナ・リザの原型とされる作品で、絵のモデルに関しては多くの説がありますが、ミラノ公イル・モーロの寵愛を受けた愛人「ルクレツィア・クリヴェッリ」であるという説が最も有力です。しかし製作年と年齢が合わないなどの指摘もあり、確定には至っていません。

ラ・ベル・フェロニエール - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

傑作「最後の晩餐」の誕生

サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会

ミラノに移住してから12〜13年後の1493年〜1494年頃、ルドヴィーコが行なっていた「サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会(画像上)」の改修工事の一環として、隣接する修道院の食堂を飾る壁画制作をレオナルドに依頼します。この時誕生したのが世界一有名な壁画「最後の晩餐」です。

最後の晩餐(レオナルド作 - 1495~1498年頃)

最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)

本作は、筆が遅いレオナルドとしては異例の1495年から1498年と言う短期間で完成に至りましたが、レオナルドは製作までの構想だけで数年を費やしています。

作中では「この中に裏切り者がいる」と言うイエス・キリストの発言をめぐり、弟子たちが動揺や混乱する姿が見事に描かれています。

完成した最後の晩餐はすぐに大評判となり、天才レオナルド・ダヴィンチの名はフランスをはじめ、ヨーロッパ各国に知れ渡りました。もし、この名壁画が誕生していなければ、晩年のレオナルドが、フランス国王に高待遇で優遇される事はなかったに違いありません。この壁画はそれほど素晴らしいものでした。

しかし、壁画が描かれた場所は厨房に近く湿気が多かったため、完成からわずか数年後でヒビが入りはじめます。レオナルドはミラノ滞在中に一度だけその部分の塗り直しを行いましたが、以後、手を加える事はありませんでした。

フランス軍のミラノ侵略

1499年7月、遂にルイ12世率いるフランス軍がミラノ公国に侵攻します。

ルイ12世の肖像画

ルイ12世の肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

ミラノ公の座に就き名実共にミラノを支配していた「ルドヴィーコ」ですが、圧倒的なフランス軍の強さに為す術もなく逃亡を図ります。現在のイタリアの一都市に過ぎないミラノとフランスでは軍事力に差があり過ぎました。後にルドヴィーコはフランスの捕虜となり、獄中で56年の人生に幕を閉じます。

フランス軍はひと月ほどで町を占領し、レオナルドが製作した騎馬像模型も破壊されてしまいます。また、レオナルドは数ヶ月前に給金の代わりとして10,000㎡の葡萄園をルドヴィーコより与えられていましたが、それも没収されてしまいます。

長年ルドヴィーコに仕えていたレオナルドは、フランス軍に囚われる事を警戒し、サライら弟子数名と共にミラノを脱出します。

マントヴァとベネチアの放浪時代

1499年、17年間滞在したミラノを去り、レオナルドが、次に目指したのは、ゴンザーガ家が統治するイタリア半島の小国「マントヴァ」でした。

マントヴァの当主は「フランチェスコ2世・ゴンザーガ」でしたが、宮廷をしきっていたのは妻の「イザベラ・デステ」でした。

イザベラ・デステの肖像画

イザベラ・デステ{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

イザベラは、ルドヴィーコの亡き妻ベアトリーチェの姉にあたる人物で、ミラノ公国とも繋がりがありました。

また、イザベラは芸術を愛する人物で、「アンドレア・マンテーニャ」や「ペルジーノ」など著名な画家達に作品を広く依頼し、宮廷に多くのコレクションを所蔵していました。

この頃、レオナルドの芸術家としての名声は「スォルツア騎馬像の模型」や「最後の晩餐」を手がけた事で、各国に知れ渡っていました。

本来イザベラにとって、レオナルドのマントヴァ滞在は願ったりかなったりのはずでしたが、ミラノに仕えていたレオナルドを迎える事はフランス軍を刺激する可能性がありました。イザベラは、客人としてはレオナルドを手厚くもてなすも、マントヴァに腰を据える事は明確に拒絶しました。

レオナルドは数日間のもてなしの御礼として、イザベラの横顔を描いたデッサンを贈ります。そして、いずれこのデッサンを油絵として仕上げる事を約束してマントヴァを後にします。この時、レオナルドは、自分の手元に残すため、もう1枚イザベラのデッサンを描いています。

後にイザベラは再三に渡り、レオナルドにこのデッサンを仕上げる事を催促する手紙を送りますが、レオナルドはこれをことごとく無視します。結局、本作を完成させる事はなく、下絵のまま現在はルーブル美術館に収蔵されています。

イザベラ・デステを描いたデッサン(レオナルド作)

イザベラ・デステのデッサン - レオナルド・ダヴィンチ作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

マントヴァを後にしたレオナルドは、イタリア半島の強国「ヴェネツィア共和国」へと向かいます。しかし、この時のベネチアは東の大国「オスマン帝国(トルコ)」から攻撃を受けたばかりで、常に侵略の脅威にさらされていました。

レオナルドは、軍事兵器のアイデアをベネチア当局に売り込む事で長期滞在の足がかりを築こうとしますが、1500年4月にベネチア共和国がオスマン帝国と協定を結んだため、その目論みは叶いませんでした。この時にレオナルドが考案した兵器(潜水服や潜水艦)のスケッチなどは現在も残されています。

ベネチア共和国にわずか数ヶ月だけ滞在したレオナルドは、再び故郷のフィレンツェへと向かいます。西暦1500年、彼の年齢は既に48才に達していました。

第2フィレンツェ時代

16世始めのフィレンツェには、芸術を愛したメディチ家統治時代の華やさはありませんでした。ドミニコ会の僧「ジロラモ・サヴォナローラ」が、メディチ家を追放し、芸術は堕落の象徴として、美術作品を燃やすなど、厳格な政策で市民を恐れてさせていたからです。

しかし、サヴォナーロが教皇を敵にまわして教会を破門になると、鬱積していた市民の怒りが爆発。1498年にシニューリア広場で締首刑の後に火あぶりとなりました。

ジロラモ・サヴォナローラの肖像画

ジロラモ・サヴォナローラの肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

レオナルドが帰郷したのは、サヴォナローラが失脚してからわずか2年後の1500年の春でした。この頃のフィレンツェは混乱期でしたが、芸術の分野では「ミケランジェロ」と言う新進気鋭の天才が大きく台頭していました。

また、イタリア半島では、ボルジア家出身の教皇「アレクサンデル6世」率いる教皇領が大きな影響力を持っていました。

聖アンナと聖母子の製作開始

レオナルドは、1501年にサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂に飾る祭壇画の制作を、セルヴィ修道僧から依頼され、聖アンナ、聖母マリア、イエスなどをモチーフにした下絵を完成させます。

伝記作家のヴァザーリが残した記録によれば、レオナルドの下絵は二日間に渡り公開され、大盛況だったそうです。

この時公開された下絵は現存していませんが、現在ルーブル美術館にある未完の油彩画「聖アンナと聖母子」は、この下絵を元に、1502年頃より製作が開始されたと言われています。

聖アンナと聖母子(レオナルド作 - 1502〜1516年頃)

聖アンナと聖母子 - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

「聖アンナと聖母子」は未完で終わったため、レオナルドは依頼された祭壇画を納品していません。彼は本作を生涯手元に残しました。

現在、本作「聖アンナと聖母子」には、似た様な構図で描かれた「バーリントン・ハウス・カルトン」と呼ばれる下絵が存在しています。

バーリントン・ハウス・カルトン

「聖アンナと聖母子」と比べると、やや構図が異なりますが、何かしらの関連性がある事は間違いなく、様々な説が語られています。現在この下絵は、ロンドンのナショナルギャラリーが所蔵しています。

また、この時期のレオナルドは、最初の下絵と全体の監修だけを行い、残りの大部分の製作は弟子たちに任せていました。

理由は定かではありませんが、この時期は制作意欲を失っていたという説や、手先が震えて作業に支障あったなど、様々な推測がなされています。

チェーザレの軍事技師として活動

レオナルドは帰郷から2年後の1502年に新たなパトロン「チェーザレ・ボルジア」に軍事技師として採用されます。

チェーザレ・ボルジアの肖像画

チェーザレ・ボルジアの肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

チェーザレは、当時フィレンツェにも絶大な影響力を持っていたローマ教皇「ロドリーゴ・ボルジア(アレクサンデル6世)」の嫡子で、軍事に関しては天才的な手腕を発揮していました。

レオナルドは、教皇軍を率いてイタリア半島統一に燃えるチェーザレと共に、軍事や防御に関する様々なアイデアを提供しながら、中部イタリアを転々とします。

この時期、チェーザレから街を自由に行き来できる「通行許可証」を発行されていたレオナルドは、イモラを視察して航空写真に匹敵するほど正解な軍用地図を作成したり、沼地の干拓方法を研究するなどして、技師としての役割を果たしていました。また、武器や要塞の防御設備を考案するスケッチも数多く残しています。

しかし、レオナルドがチェーザレの元にいたのは、1502年の夏から翌年の春頃までの一年足らずでした。チェーザレから離れた理由は定かではありませんが、考案した軍事アイデアはほとんど採用されず、チェーザレはわずかな給金しか支払わなかったそうです。

レオナルドは再び芸術家として活動するためフィレンツェに拠点を移します。

ミケランジェロとの直接対決

フィレンツェに帰還してから4年目の1504年、「ヴェッキオ宮殿」内の「500人広間(画像下)」を飾る壁画を製作すると言う大きな仕事がレオナルドに舞い込みます。

ヴェッキオ宮殿の五百人広間

この壁画製作は大変大きな話題となり注目集めていました。と言うのも、依頼主のフィレンツェ共和国元首ソデリーニは、同じ広間の対面の壁に、既に「ダビデ像」を完成させ名を馳せていた「ミケランジェロ」に、別の壁画製作を依頼していたからです。

ミケランジェロの肖像画

ミケランジェロの肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

事実上この壁画製作は、レオナルド対ミケランジェロの新旧天才対決の形相を呈していました。この2人はそれ以前からお互いを意識しており、特にミケランジェロは事あるごとにレオナルドを挑発していました。

また、ドゥオーモ大聖堂の前に置かれていた巨大な大理石を巡っては、共にその大理石で彫刻を彫りたいと、フィレンツェ当局に名乗り出ていました。 結局、フィレンツェの元首ソデリーニは、大理石をミケランジェロに委ね、ダビデ像が誕生しました。

ダビデ像の上部分

レオナルドは壁画のテーマに「アンギアーリの戦い」を指定されますが、ミケランジェロは自ら「カスチーナの戦い」をテーマに選びました。一説では、馬の表現では部が悪いと感じたミケランジェロが、馬を描かないですむテーマーを選んだと言われています。

この世紀の対決ですが、結論から申し上げると、決着はつきませんでした。先に作業をスタートしたレオナルドが、下絵に色をつける段階で新技法に失敗し、壁画上部の絵の具を溶かしてしまいます。そして、この失敗によりレオナルドはやる気を失い作業を中断します。

一方、ミケランジェロも壁画の下絵を完成させた段階で、「教皇ユリウス2世の墓」を手がけるためにローマに召集されてしまい製作を断念します。

後年に2人が手がけた書き換えの壁画は、ジョルジョ・ヴァザーリの壁画によって塗りつぶされてしまいますが、壁画を見た画家による模写がいくつか残されています。中でも「ピーテル・パウル・ルーベンス」の模写が最もレオナルドの壁画を忠実に再現していると言われています。

アンギアーリの戦い  - ピーテル・パウル・ルーベンス作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

フィレンツェ当局は、レオナルドに壁画製作を継続する様に再三に渡り催促しますが、以後レオナルドが本作で筆をとる事はありませんでした。

モナリザの製作開始

レオナルドが、アンギアーリの戦いを手掛けていた1503年頃、「聖アンナと聖母子」の製作などと並行して、後に世界一有名な絵画となる「モナ・リザ」の製作にも着手しています。

モナ・リザ(レオナルド作 - 1503〜1518年頃)

「モナ・リザ」のフランス語の呼び名である「ラ・ジョコンダ」を和訳すると「リザ夫人」と言う意味になります。このリザ夫人こと「リザ・デル・ジョコンダ」こそが、フィレンツェの富豪の妻で、長年本作のモデルと目されている人物です。

モナ・リザ

レオナルドは本作を生涯手元に残し筆を入れ続けました。彼の死後は弟子が相続し、最終的にフランス国王「フランソワ一世」によって買い取られました。

イタリア絵画の「モナ・リザ」がフランスのルーブル美術館に所蔵されているのは、こういった経緯からです。

この頃にモナ・リザを目にした芸術家の中に若き日の「ラファエロ」がいました。

ダ・ヴィンチとラファエロ

ヴェロッキオ時代の同僚であったペルジーノがレオナルドの元を訪問した際、見学に同行した20歳の「ラファエロ」が、モナ・リザを前に感動して涙を流したと言われています。

実際にラファエロがレオナルドに強い影響を受けていた事は有名な話で、その最たる例が1504年から1507年にかけて手がけた「マッダレーナ・ドーニの肖像」という作品です。

ラファエロ・サンティ作 マッダレーナ・ドーニの肖像

「モナ・リザ」という絵画は、ラファエロのみならず、後年の画家たちに多大な影響を与えました。

再びミラノへ

1506年にレオナルドに再び転機が訪れます。かつてミラノを侵略した敵国フランス軍の総督でミラノ知事を務めていた「シャルル・ダンボワーズ」がレオナルドをミラノに招いたのです。

シャルル・ダンボワーズの肖像画

シャルル・ダンボワーズの肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

芸術愛好家であった総督ダンボワーズは、レオナルドを中心にミラノをかつての様な芸術の街として復活させたいと言う考えがありました。そして、これはフランス国王ルイ12世自身の願いでもありました。

しかし、この時のレオナルドはヴェッキオ宮殿の壁画「アンギアーリの戦い」を未完成のまま放り出しており、他国へ移動するには、フィレンツェ当局からの許可が必要でした。既に前金を受け取っていたレオナルドは保証金を支払う事で、辛うじて3ヶ月だけミラノ滞在を許可されます。

レオナルドがミラノに到着すると、総督ダンボワーズは最大限の敬意を払い、偉大な巨匠として丁重に向かい入れます。更にダンボワーズは、国王ルイ12世の力を借りてフィレンツェ当局との交渉に成功、レオナルドは無期限でのミラノ滞在が可能となります。

翌年1507年の春には、フランス国王「ルイ12世」がミラノに到着するやいなや真っ先にレオナルドのアトリエを訪れます。そして、レオナルドが最初のミラノ時代に没収された葡萄園の返還を約束し、ミラノ市民が払う運河の水の使用料の一部を受け取る権利まで与えます。この頃のミラノは水不足で、水は黄金に匹敵するほどの価値がありました。

レオナルドに対する破格の高待遇は、ルイ12世の最大限の敬意と評価を表しています。既に「最後の晩餐」を実際に目にしていたルイ12世は、レオナルドの実力に惚れ込んでいました。壁画である「最後の晩餐」を切り取ってフランスに持ち帰りたいと言った程です。

フランチェスコ・メルツィとの出会い

レオナルド2度目のミラノ滞在は、非常に穏やかで優雅なものだったとされています。サンバビラ近くに与えられた家で膨大な手記の整理など行い、それ以外の多くの時間をミラノ軍将校ジロラモ・メルツィの家で過ごしたそうです。

そして、ジロラモの息子「フランチェスコ・メルツィ(当時17歳)」は、これ以降、弟子としてレオナルドに同行する事となります。

フランチェスコ・メルツィの肖像画

フランチェスコ・メルツィの肖像画{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

将校(貴族)の息子である「フランチェスコ・メルツィ」が、巨匠とは言え一介の画家の弟子となった経緯は定かではありませんが、彼は師を心より尊敬し、レオナルドの養子にもなっています。

フランチェスコは、レオナルドの有名な弟子の一人「サライ」とは対照的に、芸術の才能に恵まれ、知性と品位を兼ね備えた好青年だったそうです。そして、レオナルドが亡くなるその時まで行動を共にし、残した財産のほとんどを相続しました。

叔父フランチェスコの遺産問題

ミラノ滞在中にレオナルドを悩ませたのが、故郷ヴィンチ村に住む叔父「フランチェスコ」の遺産相続問題でした。生涯独身であったフランチェスコの晩年は非常に孤独で、親戚で顔出すのはレオナルドぐらいでした。

16歳年下のレオナルドを幼少期から大変可愛がっていたフランチェスコは、遺産の全てをレオナルドに相続させる意志を残して1505年頃に亡くなります。

しかし、当時は愛人の子であるレオナルドが遺産の全てを受け取る事には法律的な課題がありました。また、生前の叔父フランチェスコには見向きもしなかったレオナルドの腹違いの兄弟(正妻の子)たちも、遺産相続の権利を主張し始めます。

均等に分配されたはずの父の遺産に関しては一切沈黙し、一円も受け取らなかったレオナルドも、この時は黙っていませんでした。遺産問題は相続裁判へと発展します。

レオナルドは裁判や手続きのため、フランス国王ルイ12世や総督ダンボワーズの力を借りて、ミラノとフィレンツェを行き来しますが、全ての財産を「レオナルド」に相続させるという故人の意志はかないませんでした。最終的に異母兄弟たちが遺産を相続し、レオナルドは一円も受け取る事はできませんでした。

第2ミラノ時代の製作物

ミラノで穏やかな日々を過ごしていたレオナルドは製作意欲を失いつつありましたが、大パトロンであるルイ12世やフランス政府からの依頼だけは例外でした。

1507年には絵画「サルバトール・ムンディ(救世主)」を、1508年には彫刻「トリヴルツィオ騎馬像」の制作をそれぞれ開始、1509年には、ミラノと近くの湖を結ぶ運河の設計を手掛けます。

サルバトール・ムンディ - 救世主(1507〜1508年)

本作はローブをまとったイエス・キリストの姿を描いた作品で、サルバトール・ムンディはラテン語で「救世主」を意味しています。

サルバトール・ムンディ(救世主) - レオナルド・ダ・ヴィンチ作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

本作に関してはまだまだ謎が多く、依頼主や製作年に関しては諸説語られています。

ローマへ

1511年3月、レオナルドの支援者、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズが突然この世を去ると、翌々年の1513年にはスイス軍がロンバルディア地方に侵攻を開始します。

これにより、フランス軍もミラノを撤退、レオナルドは60歳にして再びミラノから別の地への移動を余儀なくされます。なぜなら、フランスに仕えていたレオナルドには厳しい処罰が予想されたからです。

1513年9月24日、レオナルドは、弟子のメルツィとサライら数人を引き連れ、フィレンツェに代わって芸術の中心地となっていたローマへと向かいます。

不遇のローマ時代

1513年、レオナルドは、ジュリアーノ・デ・メディチの援助を受け、ローマ ヴァチカンの中庭「ベルヴェデーレ宮殿」に住まいを与えられました。

ジュリアーノ・デ・メディチの彫刻

ジュリアーノ・デ・メディチの彫刻 - ミケランジェロ作

ジュリアーノはローマ教皇レオ10世の弟で、彼の父は豪華王の異名でかつてフィレンツェを支配した「ロレンツォ・デ・メディチ」です。

ローマ時代のレオナルドに関する資料はあまり多くなく、何か鏡に関係のある秘密の装置を開発していたと言われています。実際にレオナルドが助手として2人の鏡職人を呼び寄せた記録も残っています。

歴史家や研究者によれば、レオナルドがこの時ローマで作っていたのは巨大な反射望遠鏡だと推測されています。

また、ミラノ時代に多くの時間を費やした解剖学にも再び取り組んでおり、特別な許可を得て病院の地下にある死体置き場にも出入りしていたそうです。しかし、研究内容に不信を抱いた助手の鏡職人がレオナルドを告発すると、教皇レオ10世の使いによって、解剖は禁止されてしまいます。

この頃のレオナルドは、絵画の巨匠として一目おかれていた反面、周囲には謎めいた実験や研究を行う怪しい人物として警戒されていました。

旧時代の天才となった「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の晴れ舞台は、フィレンツェやローマには既にありませんでした。 一方で、ミケランジェロやラファエロと言った新時代の天才達は、教皇からの依頼を受け、バチカンで華々しく活躍していました。

活躍の場を失ったレオナルドですが、この頃より自身最後の作品となる「洗礼者ヨハネ」を描き始めています。

洗礼者ヨハネ(レオナルド作品 - 1513~1516年頃)

毛皮に身を包む洗礼者ヨハネの指は天を差し、救世主イエスの誕生を告げています。レオナルドは本作を手元に残したままこの世を去りました。

洗礼者ヨハネ - レオナルド・ダ・ヴィンチ作

フランソワ1世の招きでフランスへ

1515年一月、フランス国王ルイ12世が亡くなると、20歳のフランソワ1世が即位、スフォルツァ家が復権していたミラノを再び制服します。

フランソワ1世の肖像画

フランソワ1世の肖像画

更に1516年3月、ローマにおけるレオナルドのパトロンであるジュリアーノ・デ・メディチが病死します。 パトロンを失ったレオナルドでしたが、同年にフランス国王「フランソワ1世」から、宮廷画家としてフランスに招かれます。

フランソワ1世は先代のルイ12世同様に芸術でフランスを発展させようと考えていた人物で、芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチをこれ以上になく高く評価していました。

バチカンなどの一線の仕事から外れ、既に64歳になっていたレオナルドにフランス行きを断る理由はありませんでした。1516年の冬、弟子のメルツィやサライらと共に、フランスへと旅立ちます。

ただし、この時のサライはレオナルドに同行しなかったとする研究者もおり、意見がわかれています。

そしてこれ以後、レオナルドが再びイタリアの地を踏む事はありませんでした。

晩年のフランス時代

フランソワ1世は、レオナルドにフランスのアンボワーズにあるクルーの館と多額の年金を与え、一切の従属関係を強いる事はありませんでした。 2人の関係は、友の様でも親子の様でもあったと言われています。

レオナルドが晩年を過ごしたクルーの館

クルーの館{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

レオナルドは晩年にようやく安住の地を見つける事ができましたが、既に自分の命が長くないことも感じており、自身の研究や身辺の整理をはじめます。

アラゴン枢機卿に同行した秘書「アントニオ・デ・ベアティス」の記録によれば、既に片手が麻痺していた65歳のレオナルドは、80歳ぐらいに老け込んで見えたそうです。また、この時の記録に、レオナルドに3枚の絵画を見せてもらったとも記されており、それらは恐らく「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者 聖ヨハネ」の3点だと考えられています。

レオナルドはこの三作を死ぬまで手元に残し、生涯筆を入れ続けました。 そして、1519年4月23日に遺言書を作成した翌月の5月2日、フランソワ1世と最愛の弟子フランチェスコ・メルツィに看取られ、レオナルドは65年間の人生に幕を閉じます。

レオナルドの遺言により、財産のほとんどは最後までレオナルドに付き添った「フランチェスコ・メルツィ」が相続しました。その後、フランチェスコはミラノにレオナルドが残した手稿などを全て持ち帰りましたが、彼の死後にそれらは散逸し多くが失われました。

レオナルドの遺骨は、アンボワーズ城の中にあるサン・フロランタン教会の墓地に埋葬されましたが、10年後の宗教戦争の際に墓地は破壊されてしまいます。

この時、レオナルドの棺は辛うじて残っていた様ですが、フランス革命時に銃弾をつくるために棺の鉛が没収され、遺骨は共同墓地へと投げ捨てられてしまいます。この時点でレオナルドの遺骨がどれであるかは完全に識別不可能となります。

後年の1863年になり、アンボワーズ城敷地内にある「サン テュベール礼拝堂」に、レオナルドの頭蓋骨が再度埋葬されました。しかし、掘り出した中から一際大きい頭蓋骨を選んだだけで、それがレオナルドのものであると言う化学的根拠は一切ないそうです。