ミケランジェロの代表作品を徹底解説 – 彫刻・絵画・建築
()
画家・彫刻家・建築家本記事では、イタリア フィレンツェの芸術家「ミケランジェロ」の代表作品について、豊富な写真素材を交えて可能な限り詳しく解説致します。
ミケランジェロとは
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
「ミケランジェロ・ブオナローティ」は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ラファエロ・サンティ」と並ぶイタリア三大巨匠の一人です。人類史上でも類を見ないこの3人の天才芸術家が、ほぼ同時代にフィレンツェで活躍していた事は正に奇跡と言えます。
ダ・ヴィンチよりも22歳年下、ラファエロよりも7歳年上である「ミケランジェロ」は、1475年3月6日にフィレンツェ共和国のカプレーゼという場所で生まれました。
芸術家としてのキャリアは、フィレンツェの人気画家「ギルランダイオ」の工房に弟子入りした事が始まりです。その後、豪華王「ロレンツォ・デ・メディチ」の庇護の下で彫刻家として訓練を受け、15世紀の終わり頃より、本格的に芸術家としてデビューしました。
今では「ダビデ像」を手がけた彫刻家として世界中にその名を知られる「ミケランジェロ」ですが、絵画や建築の分野においても世紀に残る傑作を残しています。
しかし、彼の本分はあくまでも「彫刻家」であり、彫刻の肉体表現こそが最も優れた芸術であると考えていました。そのため、絵画を製作する際も、如何に彫刻的な表現に近づけるかを最も重視し、絵画の製作に関してはあまり乗り気でない場合がほとんどでした。
現存するミケランジェロの板絵は「マンチェスターの聖母」「キリストの埋葬」「聖家族」の3点(壁画・天井画を入れると7点)しか残っていません。
芸術至上屈指の傑作とされる壁画「最後の審判」も、教皇によって、半ば無理やり引き受けさせられた仕事でした。
彼の代表作を敢えて3点に絞るとすれば「ダビデ像」「サン・ピエトロのピエタ」「最後の審判」の3点が挙げられます。
【ダビデ像】
【サン・ピエトロのピエタ】
【最後の審判】
ミケランジェロの作品解説
本項では、ミケランジェロの代表作をおおよその製作年に沿って解説していきます。
バッカス像
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
本作はローマ神話のワインの神「バッカス」が、酩酊(めいてい)状態で立つ姿を象った彫刻です。通常、ミケランジェロの男性彫刻は逞しく筋肉が隆起した姿で表現される事が多いですが、本作は全体的に丸みをおびたフォルムに、胸と腹部に膨らみがある事から、男女両性を示唆していると言う説もあります。
背後では、性的欲望を象徴する半人半獣の精霊「サテュロス」が、バッカスの左手から滑り落ちたブドウの房を食べています。
本作の依頼主は、高位の枢機卿「ラファエーレ・リアリオ」と言う人物で、アンティーク彫刻の収集家としても知られていました。リアリオは、ミケランジェロが偽装した古代風彫刻からその才能を見出し、ローマに呼び寄せました。
ミケランジェロはバッカスを一年程で完成させますが、本作が性的欲求や両性具有を示唆する罪深い作品であるとして、依頼主の「リアリオ」は受け取りを拒否します。
最終的には、ミケランジェロの友人で、銀行家でもある「ジャコポ・ガリ」が本作を購入し、彼の庭園にバッカス像を飾る事で買い手の問題は解決しました。
ミケランジェロが20歳から5年間のローマ滞在で製作した彫刻は数点あると考えられていますが、現存する彫刻は本作と「サンピエトロのピエタ」のみとなっています。
マンチェスターの聖母
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
マンチェスターの聖母は、ミケランジェロが最初のローマ滞在時に手がけたキャリア初期の作品で、彼最古の絵画であるとされています。画材には、油彩ではなく卵テンペラが使用されています。
19世紀から20世紀にかけて、この絵画がミケランジェロ作ではないと言う議論は頻繁になされて来ましたが、現在は彼の作品で間違いないと言う結論で落ち着いています。
「マンチェスターの聖母」と言うタイトルは、1857年にマンチェスターで開催された「アート・トレジャーズ・エキシビション」で、本作が注目を集めた事からその様に名付けられています。5ヶ月間限定で行われたこのエキジビジョンは、16,000点以上の芸術作品を展示すると言う大規模なもので、130万人を超える来場数を記録しました。
作中の中央には「聖母マリア」と「幼子イエス」の姿が描かれていますが、マリアの片方の胸が露出しており、まるで授乳した直後であるかの様な表現がなされています。また、聖母が纏う黒いローブは、最終的に濃い青色の顔料「ラピスラズリ」で上塗りする事を意図していたと考えられています。マリアは立っている様にも見えますが、岩の上に座った姿で描かれています。
イエスに向かって右手側にいる幼子は「洗礼者ヨハネ」で、更にその右端側には、2人の天使が描かれています。天使の典型的な象徴表現である翼が描かれていないのも本作の特徴の一つです。
聖母マリアは、天使の読んでいる書物側に視線を向け、自ら手にする書物からはキリストを遠ざけようとしています。一方、幼子イエスは自身の受難の未来が記されているであろう書物に自ら手を伸ばしています。恐らくこの本は、キリスト預言の章「イザヤ書53章」だと解釈されています。
本作は未完のため、絵画に向かって左側の部分には下塗りだけされた人物像が残っています。
キリストの埋葬
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
本作に関してはあまり記録が残っていませんが、1981年に発見された資料に、ミケランジェロが、サンタゴスティーノ教会の礼拝堂を飾る祭壇画の製作依頼を1501年に受けたという記録が残っています。資料に作品名は記されていませんが、これが本作を指しているのではないかと言われています。
また、祭壇画を飾る予定だった礼拝堂はピエタに捧げられており、本作「キリストの埋葬」はテーマ的にも一致しています。更に作中での光の向き(左から右)も、礼拝堂の自然光の方向と一致しており、本作がミケランジェロ作である事を示す大きな要因となっています。
しかし、専門家の間では未だ意見が分かれており、弟子が描いたという説や、本作がミケランジェロの複製版であるなど、諸説語られています。
作中では、キリストの遺体を運ぶ場面が描かれていますが、伝統的描写では、キリストの遺体は水平に描かれます。しかし、本作ではキリストの遺体を垂直に描いており、本作者ならではの特徴が見えます。
向かって左側の赤い服を纏った人物は「福音記者ヨハネ」だと推定されています。ヨハネは右側の「クロパの妻マリア」と共に、帯状の布を体に巻きつけてキリストを運んでいます。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
向かって右端の女性は、マグダラのマリアらと共にイエスの磔刑を見守った「サロメ」、左端でうつむきがちに腰をおろしているのは「マグダラのマリア」であるとされています。右下の手つかずの部分は、おそらく「聖母マリア」のひざまずく姿を描くスペースであったと考えられています。聖母が最後まで描かれなかったのは、衣服を塗る青色の顔料「ラピスラズリ」が非常に高価であったため、予算を捻出できなかったと言う説があります。
キリストの背後の人物は「アリマタヤのヨセフ」、もしくは「ニコデモ」のいずれかであるとされています。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
1868年にロンドン ナショナルギャラリー購入された本作は、現在も同美術館に展示されています。
ピエタの彫刻シリーズ4点
ピエタは、哀れみ・慈悲などを意味する言葉で、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの姿を表現した彫刻や絵画の事を指します。
一般的に「ピエタ」と言えば、ミケランジェロの彫刻を連想しがちですが、イタリアを代表する画家たち「ペルジーノ」「ジョヴァンニ・ベリーニ」「ボッティチェッリ」なども、この「ピエタ」をテーマにした作品を残しています。
ミケランジェロは生涯で「ピエタ」をテーマに4体(3体は未完)の彫刻を残しており、イタリアが3体、バチカン市国が1体を所有しています。
サン・ピエトロのピエタ
世界一小さな国「バチカン市国」の「サン・ピエトロ大聖堂」内には、ミケランジェロの傑作「ピエタ像」が展示されています。
この通称「サン・ピエトロのピエタ」と呼ばれる彫刻は、ミケランジェロが生涯で4体手がけたピエタ像の中で唯一完成している作品です。
本作はミケランジェロが若干24歳の時に、枢機卿「ジャン・ド・ビルヘール」の依頼を受け、フランス国王の聖所を飾る彫刻として制作されたものです。
彫刻の大きさは、縦174cm × 横195cmほど、聖母マリアの頭を頂点とした三角構図で構成され、素材には一枚岩の大理石が使用されています。ミケランジェロは本作を、1498年からわずか2年で完成させました。ミケランジェロが手がけた4作のピエタの中では、最も聖母マリアの癒しと安らぎが表現されている作品です。
胸に斜めにかかる帯には、作者である「ミケランジェロ」の名前と、彼が「フィレンツェ人」である事が示されています。このサンピエトロのピエタが、ミケランジェロが生涯で署名した唯一の作品となっています。
聖母の姿が若すぎるなどの批判はあったものの、ミケランジェロはこのピエタ像を完成させた事で、その天才的才能を広く世に知らしめる事となりました。
本作は、サン・ピエトロ聖堂内の彫刻では最も厳重に管理され、クリスタルケースによって守られています。これは1972年に、精神障害を患ったオーストラリア人の地質学者がピエタ像を破壊しようと、金づちで数回打撃を加えたためです。男はすぐに取り押さえられたため、致命的な被害は免れました。
バンディーニのピエタ
ピエタシリーズのうちの1体「バンディーニのピエタ」は「ドゥオーモ大聖堂」と同じ広場にある「ドゥオーモ付属博物館」に展示されています。
高さ226cmほどの本作は、ミケランジェロが生涯で製作したピエタ像の中では最も登場人物が多いのが特徴です。中央で力なく支えられているのが「イエス・キリスト」で、その後方にはミケランジェロ自身をモデルにした「ニコデモ」の姿があります。
左右の女性像は、向かって左手が「マグダラのマリア」、右側が「聖母マリア」になります。
ミケランジェロは、ローマの「サンタ・マリア・マッジョーレ教会」に埋葬される事を望み、自身の墓碑を飾るモニュメントとして本作を制作しました。しかし、製作の段階で、自らキリストの左腕と左脚をハンバーで破壊し、腕の破片と像の主部を弟子の「アントニオ・ダ・ウルビーノ」に与え、以後本作に手を加える事はありませんでした。
この一連の行動については確かな事は分かっていませんが《使用した大理石に欠陥があり、新たに大理石を追加しないと彫刻を完成させることが不可能であった為》と言う説や、《単純に作品構成を大幅に変更したかった為》など、諸説語られています。
後年に「フランチェスコ・バンディーニ」と言う人物によって買い取られた本作は、当時新人彫刻家であった「ティベリオ・カルカーニ」によって、部分的な修復が行われました。「カルカーニ」は、マグダラのマリアの手足、聖母マリアの指、キリストの左乳首、キリストの左腕と肘、そしてキリストの右腕と手を再び取り付けましたが、イエスの左足を復元する事はできませんでした。その部分は現在も失われたままとなっています。
ミケランジェロの死後、ピエタ像は聖ロレンツォ教会の地下やドゥオーモ大聖堂内に置かれていましたが、1981年より「ドゥオーモ付属美術館」に展示される様になりました。
パレストリーのピエタ
高さ253cmn「パレストリーのピエタ」は、フィレンツェの「アカデミア美術館」に展示されている彫刻です。
本作は、ローマ東側の都市パレストリーナにあるベルベリーニ礼拝堂で発見され、1939年にアカデミア美術館に運び込まれました。
本作に関する、情報や文書はほとんで残っておらず、数世紀も放置されていたなどの理由から、ミケランジェロの作品ではないという説が有力となっています。作者としては「ベルニーニ」なども候補に挙がっていますが、はっきりした結論には至っていません。
ロンダニーニのピエタ
「ロンダニーニのピエタ」は、ミケランジェロの遺作となった作品で、亡くなる数日前まで本作の製作に取り組んでいたと言われています。
彫刻の高さは195cmほど、作中では「イエス・キリスト」と、イエスを支える「聖母マリア」の姿が表現されています。彼が最初に製作した「サン・ピエトロのピエタ」と比べると、明らかに悲しげで死の悲壮感を感じる様な作品となっています。向かって左手側には、主部から独立した突起の様な部分がありますが、これは初期構想として製作されたイエスの右腕がそのまま残ったものです。
通常の「ピエタ」では、聖母マリアが死せるイエスを抱く姿を描きますが、本作では、イエスがマリアを背負っているかのように見えるのが大きな特徴です。この構成については諸説語られていますが、確かな事は分かっていません。
作名である「ロンダニーニ」は、1744年にこの彫刻を購入した「ロンダニーニ侯爵」が、コルソ通り(ローマ)にある邸宅の図書館に本作を飾っていた事からこの様に名付けられています。
ミラノ市によって本作が購入された1952年に、現在の展示場所である「スフォルツァ城博物館」に運び込まれ、2004年には、彫刻の石材に付着した汚れを除去する修復作業なども行われました。
ダビデ像
フィレンツェのアカデミア美術館最大の目玉である大理石彫刻像「ダビデ」は、高さ517cm(土台を含めて)を誇る巨大彫刻です。
当時この象は、フィレンツェ大聖堂に置くために、フィレンツェ共和国政府がミケランジェロ(当時26歳)に制作を依頼し、1501年から1504年にかけて制作されました。
本作はその名の通り、12の部族をまとめ、後にイスラエル王となった旧約聖書の登場人物「ダビデ」をモデルにした彫刻です。
ダビデの表情やポーズは、敵国ペリシテ軍の巨人「ゴリアテ」に闘いを挑む直前の姿が表現されています。さらに右手をよく見ると、石を力強く握っているのが分かります。血管の動きまで見事に表現されています。
元々、ダビデ像の素材に使用されている大理石の塊は、別の彫刻家が制作を試みて使用したものでした。
しかし共に制作を断念したため、大理石の塊は25年以上も、フィレンツェ大聖堂の中庭に放置されていました。
その後、ミケランジェロがその大理石の塊と巨大彫刻制作プロジェクトを引き継いで「ダビデ像」をつくり上げました。
聖家族(トンド・ドーニ)
本作「聖家族」は、製作依頼者である「アニョロ・ドーニ」の名に因んで、トンド・ドーニ(ドーニ家の円形画)とも呼ばれています。トンド(円形画)は、当時のフィレンツェで流行した絵画形式で、特に聖母子を描く際に多用されました。
ミケランジェロの友人であり商人であった「アニョロ・ドーニ」は、自身とトスカーナ良家の娘「マッダレーナ・ストロッツィ」との結婚を記念して本作を依頼したと言われています。参考までに下の絵画はラファエロが同時期に製作した「ドーニ夫妻」の肖像画です。
壁画を除けば、この「聖家族」はフィレンツェに現存するミケランジェロの唯一の絵画です。作中では、聖母マリアが、夫でイエスの養父である「ヨセフ」に両膝で体を支えられながら、幼子イエスを受け取る姿が描かれています。
13世紀頃からの聖母崇拝により、聖母子像が絵のテーマーとして頻繁に描かれていましたが、通常マリアは両手を組み、目線を下げて子供の寝ている姿を愛おしげに見ているだけです。しかし、ミケランジェロは、聖母マリアの肉体のうねりや筋肉の表現など、敢えて難しい肉体描写をこの作品の中で描きました。
絵画も彫刻と同等に肉体のリアルさを表現しなくてはならないという、本来は彫刻家である「ミケランジェロ」の強いこだわりが見える作品です。
絵画における見事な肉体表現や、円という特殊な画面を見事に使いこなしたミケランジェロの構成力は多くの人間に賞賛されました。
絵画を飾るフレームもミケランジェロ自身がデザインしたオリジナルだと言われています。
天地創造
1508年、ローマ教皇「ユリウス2世」は、33歳の若き日の「ミケランジェロ」に、システィーナ礼拝堂の天井装飾を命じました。彫刻家が本領のミケランジェロはこの作品の制作に乗り気ではなかったものの、教皇の命令には逆らえず、1508年より天井画の制作に取りかかりました。参考までに、この時点では、同礼拝堂の天井には単純な星空のみが描かれていました。
作業は、足場構築の問題で「ブラマンテ」と意見が対立したり、1年ほど中断するなど、決して順調とは言えませんでした。しかし、制作開始から4年半後の1512年11月、度重なる困難を乗り換えてミケランジェロは天井画を完成させました。
【天井画(左側部分拡大)】
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
【天井画(右側部分拡大)】
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
総面積1000㎡近くあるこの天井画には、旧約聖書を題材にした創世記の9つの物語が約300の人物と共にフレスコ画で描かれています。物語は大きく3つのグループに分類され、天地創造関連が3つ、アダム関連が3つ、ノア関連が3つとなっています。
各物語は「最後の審判」の壁画側から礼拝堂の入口側に向かって「光と闇の分離」「太陽と月の創造」「地と水の分離」「アダムの創造」「イヴの創造」「原罪と楽園追放」「ノアの燔祭」「大洪水」「ノアの泥水」の順で展開されていきます。
教皇ユリウス2世の霊廟(モーゼ・レアル・ラケ像)
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
本作は、ローマ教皇「ユリウス2世」が自身の名を後世に残すため、ミケランジェロに命じて、1510年〜1542年にかけて製作させた墓廟です。
当初の「ユリウス2世」の計画では、この墓廟をバチカンのサン・ピエトロ大聖堂内中央に飾る予定でしたが、最終的にはローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に置かれる事となりました。墓廟の規模も、当初のミケランジェロの構想からは大幅に縮小されたものとなりました。
これは、ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井画や他の仕事で手一杯であった事などか大きな要因です。ユリウス2世自身も強制的にシスティーナ礼拝堂の天井画製作をミケランジェロに優先させました。ユリウス2世は霊廟そのものよりも、まずは霊廟を飾るための場所が大切だと考えた訳です。後にミケランジェロはこの墓廟製作を「悲劇」であったと記しています。
墓廟を飾る7体の彫刻のうちミケランジェロが実際に手がけたのは最下段の3体のみで、それ以外は別の彫刻家によって製作されました。
最下段の彫像は左から「ラケル」「モーゼ」「レア」が並び、中央の高さ4mの「モーゼ像」が一際存在感をはなっています。モーゼは、旧約聖書の出エジプト記に登場する民族指導者で、エジプトからヘブライ人を率いて約束の地を目指した人物です。
奴隷(囚人)の彫刻シリーズ6点
ミケランジェロ作の「奴隷シリーズ(囚人シリーズ)」と呼ばれる一連の彫刻群は、前頃で紹介した「ユリウス2世」の墓廟の基台部分を飾るために製作されたものです。
当初の構想では、ユリウス2世の墓廟を40体の彫刻で飾る予定でしたが、実際に制作されたのは数体のみで、そのうちの6体(未完含む)が奴隷シリーズと呼ばれています。基本的に奴隷シリーズの彫刻は、正面から見られる事だけを想定して製作されているため、どこから見ても美しい「ダビデ像」などと比較すると、明らかに背面や側面などは完成度が高くありません。
現在、6体のうち初期に製作された2体「瀕死の奴隷」と「抵抗する奴隷」は、パリの「ルーブル美術館」に、残りの4体はフィレンツェの「アカデミア美術館」に展示されています。アカデミア美術館の奴隷像4体は、1909年にアカデミア美術館に運びこまれる以前は、300年以上もボーボリ庭園の洞窟に放置されていたそうです。
瀕死の奴隷
6体の奴隷シリーズの中で最も有名なのがこの高さ229cmある「瀕死の奴隷」です。この像が何を表現しているかは諸説語られていますが、確かな事は分かっていません。
反抗する奴隷
高さ215cmの彫刻「抵抗する奴隷」は、「瀕死の奴隷」と同時期に製作された作品で、共にルーブル美術館の0階 ドゥノン翼に展示されています。作中では、奴隷が束縛から解放されようと苦しみもがく姿が表現されており、胴体をゆがめながら両手を背中の後ろに抱え、必死に頭をひねろうとしています。力を右足に込めているのが見るだけで伝わってきます。
一説では、ユリウス2世に征服された土地や地域を擬人化したものであると言われています。ルーブルの所蔵となったのは、完成から約200年ほど後の1793年ごろの事で、それまではリシュリュー枢機卿が所有していました。
アトラス(Atlante)
高さ277cmのこの彫刻は、まるで大塊をかついでいるかの様に見える事から「アトラス」と呼ばれています。アトラスは、神々に反抗した罰として生涯天空を背負うことになった巨人の名です。
髭の奴隷(Schiavo Barbuto)
アカデミア美術館の奴隷シリーズの中では、この高さ263cmの「髭の奴隷」が最も完成に近いと言われています。おそらく布を持たせる予定だった右手と右腕の一部だけが未完成で、顔は巻き毛のひげで覆われ、右太ももには布が巻かれています。
若い奴隷(Schiavo Giovane)
高さ256cmの「若い奴隷」と呼ばれるこの像では、左手を上げて顔を覆い、右腕を脇から後方に伸ばす姿が若々しく表現されています。
目覚めた奴隷(Sciavo che si ridesta)
高さ267cmの「目覚めた奴隷」は、奴隷シリーズの中で最も輪郭がはっきりしておらず、まるで身もだえし、緊張しているように見えます。
聖マタイ像
聖マタイは、新約聖書の福音書に登場する聖人でイエス・キリストの十二使徒の1人です。元々本作は、フィレンツェ大聖堂の柱を飾る予定だった12使徒彫刻の最初1体として制作されました。
しかし、ミケランジェロが、ユリウス2世の墓碑制作プロジェクトのためにローマに呼ばれたため、計画は中止となりました。結局、12使徒で制作されたのは、この「聖マタイ」像のみでした。
メディチ家礼拝堂 新聖具室と彫刻群(夜、昼、黄昏、曙)
メディチ家礼拝堂(フィレンツェ)を構成する建物の一つ「新聖具室」は、メディチ家出身の教皇「レオ10世」が、歴代メディチ家一族を埋葬するため、ミケランジェロに命じて造らせたものです。
ミケランジェロは、この聖具室の製作を1520年から1534年にかけて行いましたが、フィレンツェが動乱の時代にあった事などもあり、数年の中断を経た後、未完のままローマに拠点を移してしまいます。以後、ミケランジェロがフィレンツェに戻る事はありませんでした。
最終的にこの新聖具室は、「ジョルジョ・バザーリ」と「バルトロメオ・アンマンナーティ」の手によって仕上げられますが、正方形の室内には「朝」「夜」「黄昏」「曙」など、ミケランジェロが手がけた数体の彫刻で飾られています。計画では正方形の室内に4つの墓碑を飾る予定でしたが、ほぼ完成と言える状態に至ったのは、2つのみでした。
ヌムール公ジュリアーノの墓碑
新聖具室を飾る墓碑の一つは、レオ10世の弟で教皇軍の総司令官を勤めた「ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)」のものです。
墓碑を飾る3つの彫刻のうち、中央に座して横を向いているのが「ジュリアーノ(1516年没)」自身の彫刻で、作品のテーマーから「思索」とも呼ばれています。棺の上で横たわっている彫刻のうち、向かって左側が「夜」で、右側が「昼」と呼ばれる作品です。この対になっている彫刻のうち「夜」は、1526年から1531年にかけて制作されたもので、古代彫刻「眠れるアリアドネ(ウッフィツィ美術館所蔵)」に強い影響を受けて製作されたと言われています。眠る様な表情を見せる像の足元には、夜を象徴する「フクロウ」が、腕元には夢を象徴する「仮面」の彫刻が配置されています。
一方、1526年から1531年頃に制作されたとされる「昼」の彫刻は「夜」とは対照的に、力強い表情で遠くを見つめています。
ウルビーノ公ロレンツォの墓碑
ジュリアーノの墓碑の向かい側の壁には、レオ10世の甥で、軍人として活躍した「ウルビーノ公ロレンツォの墓碑」が置かれています。
中央に座して兜を被っているのが「ロレンツォ(1519年没)」自身の彫刻で、作品のテーマーから「行動」とも呼ばれています。棺の上で横たわっている彫刻のうち、向かって左側が「黄昏」で、右側が「曙」と呼ばれる作品です。1524年から1534年ごろに制作されたとされる「黄昏」では、髭を生やして思慮深い表情を見せる男性像が視線を下に向けています。一方、「曙」は、対面にある「夜」の彫刻と同様に古代彫刻「眠れるアリアドネ」に影響を受けた作品だと考えられており、太陽の昇る明け方の静けさが、女性の柔らな雰囲気で表現されています。
聖母マリア像
新聖具室内の壁面の一角には、彫刻3対のみが置かれている場所がありますが、ここには豪華王で知られる「ロレンツォ・デ・メディチ(1492年没)」と、その弟の「ジュリアーノ・デ・メディチ(1478年没)」が埋葬されています。
本来メディチ家の主役級であるこの二人が、この様な形で埋葬されているのは、制作予定だった2人の墓碑が未着手のまま制作されなかったためです。聖書に登場する双子の聖人を象った両脇の「聖コスマス(向かって左)」と「聖ダミアヌス(右)」の彫刻は、別の2人の彫刻家「ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリ」と「ラファエッロ・ダ・モンテルーポ」が手がけたものです。ミケランジェロが手がけたのは、中央の「聖母マリア像」だけになります。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
ラウレンツィアーナ図書館と階段
"Biblioteca medicea laurenziana interno" by Sailko is licensed underCC BY 3.0
フィレンツェのサン・ロレンツォ教会の付属施設「ラウレンツィアーナ図書館」には、「コジモ・デ・メディチ(老コジモ)」や「ロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)」らが、15世紀に収集した貴重な書物コレクションが収められています。
書物は「ロレンツォ・デ・メディチ」の時代に一般公開され始めますが、16世紀初めの教皇「ジュリオ・デ・ メディチ(クレメンス7世)」の時代に建物の大規模改修が計画されます。
この時に図書館とその玄関ロビーの改修設計を任されたのが「ミケランジェロ」でした。
工事は1524年より着工されますが、依頼主の教皇クレメンス7世が1534年に亡くなると、ミケランジェロもフィレンツェを去り、中断を余儀なくされます。この時点で完成したのは、図書館の壁面のみでした。
以降、ミケランジェロがフィレンツェに戻る事はなかったため、ミケランジェロの設計を元に、ヴァザーリ、アッマナーティ、トリボロなどか工事を引き継ぎ1568年に図書室を完成させました。
図書室へと通じる玄関ホールの「階段」は、マニエリスム建築の代表作品となっています。
"Biblioteca laurenziana, vestibolo, scalinata" by Sailko is licensed underCC BY 3.0
玄関ホールの半分を占めるこの階段の施工は、アッマナーティによって1559年より行われました。アッマナーティは実際に粘土模型を作るなど、極めてミケランジェロの設計に忠実である様努めました。唯一、建材に関しては、ミケランジェロが構想した胡桃の木ではなく、石材が使用されました。
階段は大きく3つのパーツ「四角形(両側の階段)」、「凸(中央階段)」、「楕円形(中央下三段と上部一段)」で組み合わされているのが特徴的です。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
玄関ホールの円柱は壁の中に埋め込まれ、柱として建物を支える役割を担っていません。更にその下の「持ち送り」も、壁から突出した柱などを支えるために取り付けられますが、こちらも単なる飾りとして置かれています。
これは、元となる建物の大きさが決まっていたり、改修可能な範囲に制限があったためです。ミケランジェロはこの状況下でのデザイン一新手段として、既存の壁の上に新しい壁を造り、そこに見せかけの「円柱」や「持ち送り」「開かない窓」を取り付ける設計を行いました。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
この様な古典建築の基礎と原理を理解した上で、パーツやフレームに遊び心を取り入れて、敢えて見た目を強調させる手法「マニエリスム」は、ミケランジェロが先駆者です。
最終的に、この玄関ホールと階段が完全に完成と言える状態になったのは20世紀に入っての事でした。
レダと白鳥
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
レダと白鳥は、フェラーラ公「アルフォンソ1世・デステ」がミケランジェロに1530年に制作を依頼した油彩絵画です。
ただし現存する本作は、失われてしまったオリジナルの古い複製と考えられており、オリジナルは17世紀の終わりに焼失したとされています。そのため、現存するミケランジェロ作の板絵はこれを除いた「マンチェスターの聖母」「キリストの埋葬」「聖家族(トンド・ドーニ)」の3点のみです。
レダと白鳥のオリジナルの大きさに関しては正確な事が分かっておらず、ミケランジェロの伝記作家として知られる「アスカニオ・コンディヴィ」によれば、非常に大きかったという事です。
作中では、有名なギリシャ神話の一場面が描かれており、白鳥に変身した神ゼウスが、スパルタの女王レダを誘惑しています。レダは、ゼウスの子供として「ヘレン」と「ポリデュース」を、スパルタ王の子供として「キャスター」と「クリテムネストラ」を生んだとされるギリシャ神話の登場人物です。
レダのポーズは、石棺のレリーフ「眠れるアリアドネ(ウッフィツィ美術館)」に強く影響されており、この影響は、1531年に制作されたミケランジェロの大理石彫刻「夜(メディチ家礼拝堂)」にも見られます。
ベネチア派を代表する画家「ティツィアーノ」も、ミケランジェロの本作と競う形で絵画「ダナエ」を同じ構図で5点も残しています。下はそのうちの1点で、現在マドリードのプラド美術館に展示されている作品です。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
ミケランジェロは、このプラドの「ダナエ」を目にして、賞賛と批判の両方を口にしたと言われています。
現在「レダと白鳥」は「ロンドン ナショナルギャラリー」の展示作品となっていますが、1915年以前は、絵画の裸体表現が公開にふさわしくないとされ、同美術館の作品カタログからは除外されていました。
カンピドリオ広場
ローマの七丘の一つである「カンピドリオの丘」は、古代ローマ時代より政治と宗教の中心地として重要な役割を担ってきた神聖な場所です。そして、この丘の頂上には、3つの大きな建物に囲まれた台形型の「カンピドリオ広場」があります。
この「カンピドリオ広場」は、16世紀のローマ教皇「パウルス3世」が、ローマの新たなシンボルの一つとして、「ミケランジェロ」に設計を依頼して造らせたものです。
広場を囲む、3つの宮殿のうち、入口を背にして右手側の「コンセルヴァトーリ宮」と正面の「セナトリオ宮」の2つは、改修初期から存在していたと考えられており、ミケランジェロはファサード(建物正面)のデザイン変更だけを行いました。その上で「コンセルヴァトーリ宮」の正面に新たに宮殿を追加し、3つの建物で台形を形成する様に広場をデザインしました。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
ミケランジェロが改修をする以前の広場の入口は南東側に位置しており、そこから「フォロ・ロマーノ」側を見渡す事ができました。しかし、ミケランジェロはこれをほぼ反転させ、入口を北西側に置き「サン・ピエトロ大聖堂」側を見渡せる様に造り替えました。更に入口部分に「コルドナータ」と呼ばれるスローブの様な石階段を設け、緩やかな傾斜を登って広場にアクセスできる様にしました。現在も広場へのアクセスにはこの石階段が利用されています。
広場の地面は「トラバーチン」と呼ばれる石灰岩で舗装され、中央には「マルクス・アウレリウス・アントニウスの像」が置かれています。
この像は、ミケランジェロによる改修が開始された1537年頃に、ローマの七丘の一つ「チェリオの丘」から運びこまれたもので、像の台座のみミケランジェロがデザインしました。地面には、像を中心に楕円形が描かれ、そこから波紋の様な模様が広がっています。この模様は、12星座を示す「黄道十二宮」を、ミケランジェロが表現したものだと言われています。
ミケランジェロがこの建設プロジェクトに携わったのは、1536年から1546年頃まででしたが、その意志は忠実に引き継がれ、広場とそれを囲む建物群は17世紀に完成を迎えました。ミケランジェロが設計を手がけた建造物で、彼の生前に完成したものは1つもありませんでした。これは、ミケランジェロの責任というよりは、教皇の意向や権力争い、国の情勢などが大きな要因です。
最後の審判の壁画
バチカン美術館で最大の見どころとも言えるのが、システィーナ礼拝堂の祭壇側の壁に描かれたこの「最後の審判」です。
「最後の審判」は、既に同礼拝堂の天井画「天地創造」を完成させ、その名声をとどろかせていた「ミケランジェロ」が16世紀に手がけた作品です。
最後の審判の大きさは、縦1370cm、横1220cm、その内容は「新約聖書」やダンテの「神曲」に基づいて表現されています。簡単に言うと、人間は生前の行いの善悪によって、この世の終わりに再臨したキリストの裁きを受け、天国か地獄に送られるというものです。
作中に登場する人物は約400名ほど、中央上部で光を背負うのが「イエス・キリスト」です。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
キリストの左側の女性は「聖母マリア」で、他にも聖人、預言者、使徒、殉教者などが審判側で描かれています。
パオリーナ礼拝堂の壁画(サウルの改宗・聖ペテロの殉教)
パウルス3世は、1541年10月に完成したシスティーナ礼拝堂の壁画に大変満足し、今度はバチカン宮殿内にある彼の私的礼拝堂(パオリーナ礼拝堂)の壁画製作をミケランジェロに命じます。
この時にミケランジェロが合計8年間の歳月をかけて完成させたのが「サウルの改宗」「聖ペテロの殉教」と名付けられた壁画2作です。
サウルの改宗(パウロの改宗)
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
ミケランジェロは1542年7月から「サウルの改宗」の製作に着手し、3年後の1545年7月に作品を完成させます。この時ミケランジェロの年齢は70歳に達していました。今よりもずっと平均年齢が短かったこの時代に、70歳と言う高齢でこれだけの大作を描き上げる精神力は正に神の領域と言えます。
本作のサイズは、縦625cm、横661cmほどで、システィーナ礼拝堂の壁画の半分ぐらいの大きさで描かれました。
作中では、ダマスカスの道中を行く反キリスト教徒の「サウロ(パウロ)」が、天の光と共にイエスの啓示を聞く場面が描かれています。この時、落馬したサウロは盲目となりますが、後に回復し、様々な奇跡を目の当たりににした事でキリスト教に改宗しました。
絵画上部やや左側で、光臨をまとい地上に光を放つのが「イエス・キリスト」で、その周囲を天使たちが囲んでいます。光の直線上で地面に倒れ込んでいるのが、落馬した「サウロ」で、通常は20代後半〜30代ぐらいの姿で描かれます。しかし、本作ではミケランジェロ自身をモデルにしており、老齢の男性としてサウロが描かれています。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
本作で描かれている「サウルの改宗」は、多くの画家が絵画のテーマとして扱っており、「ラファエロ」や「カラバッジョ」も、このテーマを題材にした作品を残しています。
聖ペテロの殉教
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
ミケランジェロは「サウルの改宗」を完成させた翌年1546年より、その対面(東側)の壁を飾る「聖ペテロの磔刑」のフレスコ画製作に着手します。4年後の1550年に無事本作は完成を迎えますが、この時75歳に達していたミケランジェロの最後の「壁画」となりました。
作中では、山岳風景の中で、十字架に磔(はりつけ)にされたキリスト12使徒の一人「聖ペテロ」の姿が描かれています。聖ペテロは、暴君「皇帝ネロ」によって、逆さ十字架にかけられた聖人で「バチカン市国」内にある「サン・ピエトロ大聖堂」の主祭壇の下に祀られています。
通常の磔刑をテーマにした作品では、既に垂直に立てられた十字架に磔(はりつけ)られた姿が描かれますが、本作はその常識を覆し、ローマ兵が今まさに十字架を持ち上げようとする瞬間が描かれています。また、ペテロが起き上がろうとする姿勢をとり、こちら側に視線を向けている点なども非常に革新的です。
この壁画の大きさは、縦625cm、横662cmと、対面に描かれた「サウルの改宗」とほぼ同サイズです。
2009年に完了した修復により、作中にミケランジェロ自身をモデルにしたと思われる人物がいる事が明らかになりました。
{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA
左上隅に立ち、赤いチュニック(筒型衣服)を着て、青いターバンを被っているのが「ミケランジェロ」とされる人物です。
サン・ピエトロ大聖堂のクーポラ(ドーム)
バチカン市国には、教会建築としては世界一の大きさを誇るカトリックの総本山「サン・ピエトロ大聖堂」があります。
建物正面(ファサード)の設計は、「ブラマンテ」や「カルロ・マデルノ」などの建築家が手がていますが、大聖堂最上部に堂々とそびえる「クーポラ(ドーム部分)」を設計したのは、彫刻が本業の芸術家「ミケランジェロ」です。
彫刻以外の仕事を望まないミケランジェロも、この大聖堂関連の仕事は例外であったと言われています。当時の芸術家たちにとって、この大聖堂の建築プロジェクトに携われる事が、どれだけ名誉であったかを伺い知れるエピソードです。残念ながら「レオナルド・ダ・ヴィンチ」はこのプロジェクトに召集される事はありませんでした。
クーポラの外側の構造を見ると、ドーム部分は16本のリブ(補強)、基部は16組(32本)のコリント式円柱で支えられています。
サン・ピエトロ大聖堂の大部分は「バロック様式」で造られていますが、このクーポラに関しては「ルネサンス様式」で造られています。ルネサンス様式は、「左右対称」「規則性」「等間隔」などを特徴とする、古代ローマ建築をベースにフィレンツェで発展した建築様式です。
元々クーポラの建築は、サン・ピエトロ大聖堂の初代設計監督「ブラマンテ」によって16世紀初期に計画されていましたが、本格的にプロジェクトが指導したのは「ミケランジェロ」の新設計プランが1547年に考案されて以降のことです。
現在、我々が目にする事ができるクーポラも、この時のミケランジェロの設計が元になっていますが、そのミケランジェロも、「ブルネッレスキ」によって1世紀ほど前に設計されたドゥオーモ大聖堂(フィレンツェ)のクーポラ構造を大いに参考にしています。
また、「ミケランジェロ」が生前に実際に完成する事ができたのは、クーポラのドラム部分(円屋根を支える円筒状の壁)だけでした。クーポラが構造的に完成と言える状態になったのは、彼が1564年に亡くなった後の1593年の事で、最終的には、ミケランジェロの構想よりも高さが7〜8mほど伸びて完成しました。
内部直径42.56mもあるこの巨大な円蓋の総重量は約14,000トンと推定され、内側には、天使や神々の姿がモザイク画で描かれています。これらは、ミケランジェロの設計にはなかったもので、彼の死後にイタリア画家「カヴァリエール・ダルピーノ」によって、17世紀初期に描かれました。
クーポラの建築は、ほぼ半世紀に渡って複数の建築家と芸術家が携わっています。専門家の間では、初期設計を行った「ミケランジェロ」よりも、最終的にクーポラを22ヶ月で完成させた建築家「ジャコモ・デッラ・ポルタ」の設計作品とすべきであるという意見もあります。結論はどうあれ、ミケランジェロという天才なくして、このクーポラを完成させる事は不可能であった事は間違いありません。
参考までに、サン・ピエトロ大聖堂の回廊(画像下)も「ミケランジェロ」が1569年に出した設計案がベースになっています。
まとめ
最後の完成作品となった「パオリーナ礼拝堂の壁画」の製作終了から、14年後の1564年2月18日、ミケランジェロは88年の人生に幕を閉じました。当時のイタリアの平均年齢が40〜50才ぐらいだった事を考えると、かなりの長寿であったと言えます。
晩年はほとんど視力を失っていましたが、手先の感覚を頼りに死ぬ直前まで「ロンダニーニのピエタ」に手を加えていたと言われています。
ミケランジェロがジャンルを問わず生涯で残した作品数は、未完も含め40〜60点ほどあったとされ、彫刻、絵画、建築、それぞれの分野で世紀に残る傑作を残しています。ダ・ヴィンチは「万能の天才」と称されますが、ミケランジェロは「神の如き」と称される様に、既に人の領域を超えて神の領域で芸術と向き合っていたのかも知れません。
ミケランジェロ関連のお勧め書籍
ミケランジェロに関する書籍は世の中に数多くありますが、個人的にお勧めの2冊をご紹介致します。書籍のタイトルをクリックする「Amazon」の書籍ページに移動します。
【Amazon】ミケランジェロ・ブオナローティの生涯 (Artist by Artist)ミケランジェロの入門書として、彼の生涯、作品などの知識をバランス良く補完する事ができます。システィーナ礼拝堂やピエタを始め、美しい作品写真が豊富に掲載されています。文章が苦手な方でも読みやすい良書です。
【Amazon】神のごときミケランジェロ (とんぼの本)レオナルド・ダ・ヴィンチに関しても良書を出されている「池上英洋」さんの書です。大事な部分には白黒写真も必ず挿入されており、上っ面だけでなく「ミケランジェロ」についてしっかりと学びたい方には一押しの書籍です。若干だけ美術や建築に関する専門用語もありますので、ミケランジェロ 本の2冊目としてお勧めです。読解力のある方には、入門書としても悪くないと思います。
この記事をシェアする