ヤン・フス像 旧市街広場(プラハ)

(2017年10月24日) 旧市街広場のヤン・フス像

旧市街広場の中心に立つのが、15世紀にプラハで宗教改革を行ったプロテスタントの指導者「ヤン・フス」の彫像です。このヤン・フス像は、彼の500周忌にあたる1915年に、チェコの彫刻家「ラディスラフ・シャロウン(Ladislav Šaloun)」によって制作されました。彫像の制作に掛かる費用は市民の寄付金によって賄われました。

ヤン・フス像の視線の先にはティーン教会があります。これは、1419年から1621年まで、ヤン・フスのメインの教会がティーン教会であったためです。ヤン・フス像の傍には、「フス派の戦士」をはじめ、追放された「プロテスタントの人々」、チェコのナショナリズム復活のシンボルである「女性像」などが並んでいます。更にこれらの像に加えて、チェコ独立後の1918年には、ヤン・フスの生前の言葉が刻まれた碑文も追加されました。

「ヤン・フス」の生い立ちと、カトリック破門まで

ヤン・フス像

ヤン・フスは1370年に貧しい両親のもと、南ボヘミアのフシネツという場所で生まれました。彼の名は出身地の「フスネツ」という地名に由来しています。

ヤン・フスは1390年から1392年までの2年間、カレル大学で勉学に励み、卒業からわずか2年後の1394年にはカレル大学の修士学位を取得します。その後、カレル大学で教鞭を執り始め、1401年にはカレル大学の学部長に就任します。

更に1402年に入り、ヤン・フスは「ベツレヘム礼拝堂」の責任者となります。これにより、ベツレヘム礼拝堂は、彼を中心としたボヘミアにおける国民運動の中心的な場所となっていきます。ヤン・フスはこの礼拝堂を起点として、積極的に説教活動を行うと共に、カトリック教会の堕落を批判し始めます。

しかし、カトリックの批判を行う「ヤン・フス」の思想や説教は、ついに法王の怒りをかい、1410年にはカトリック教会を破門されてしまいます。

法王によって火あぶりに処せられた「ヤン・フス」

ヤン・フス像と聖ミクラーシュ教会

カトリックを破門された後も、ヤン・フスは積極的に説教活動を続け、多くの人々の心をつかんでいきます。ヤン・フスの人々への強い影響力を危惧した法王は、1414年にヤン・フスのプラハでの一切の説教活動を禁止すると共に、ヤン・フスに対してコンスタンツ公会議(カトリック教会の公会議)への出廷を命じます。

法王は会議の中で「ヤン・フス」に対して、彼の思想や説教活動を絶つ事を要求しますが、ヤン・フスがこの要求を拒否したため、1415年に火あぶりの刑に処せられました。

フス派とローマ・カトリックの戦い「フス戦争」

カトリック教会のヤン・フスに対する理不尽な刑の執行は、チェコ全国民に大きな衝撃を与えました。そして、フスを信仰する人々は、フス派を名乗り、カトリックに対抗するために立ち上がりました。このムーブメントは、後に「フス戦争(1419年〜36年)」と呼ばれるカトリックとフス派の戦いに発展して行きました。

ロケーション

ヤンフス像は、旧市街広場の中央やや東よりに建っています。