ドゥブロヴニクの歴史

(2017年7月30日) ドゥブロヴニク旧市街 オレンジ色の屋根

地上の楽園と言われるドゥブロヴニクも長い歴史を持っています。ドゥブロヴニクが誕生したのは7世紀ごろで、西ローマ帝国が崩壊し、スラブ人の襲撃から逃れてきたラテン人たちが、岩場だった地に住み着いた事が始まりだとされています。

その後、スラブ人たちは島の対岸に住むようになり、しばらくは海を挟んでラテン人、北側にスラブ人が暮らしていました。

12世紀になると、海が埋め立てられ一つの街に合併します。その時に埋め立てられたのが、現在のメインストリートであるプラツァ通りです。ドゥブロヴニクは二つの民族が共存する事で大きく発展を遂げました。

交易によって大きく発展した13世紀

ドゥブロヴニクの旧港

城壁の街ドゥブロヴニクが交易によって大きく発展したのは13世紀ごろでした。港に各国の商船が停泊し、街は船乗りや商人達でにぎわいました。

この小さな街が交易で栄えた理由は地理にあります。当時、東地中海における交易の中心はヴェネチア王国でした。

ヴェネチアからイスラム海域を目指す船の航路はアドリア海の東海岸線でした。そして、ドゥブロヴニクはその航路の真上に位置していたのです。

そのため、ドゥブロヴニクはラテン語が通じる西側最後の寄港地として重宝されました。ドゥブロヴニクは異文化との境界線であると同時に、食料と水を補給したり、時には船乗りの入れ替えを行う重要な拠点でした。

ドゥブロヴニクに城壁が築かれた歴史的背景

ドゥブロヴニクの城壁

ドゥブロヴニクは列強諸国に囲まれていたため、ヴェネチア王国やオスマントルコを始めとする国々に常に干渉を受ける事を余儀なくされました。

そんな地理的な要因もあり、ドゥブロヴニクの周囲には城壁が築かれました。城壁は15世紀から16世紀にかけての大工事で現在の形になったと言われています。

こうして小さな都市国家であったドゥブロヴニクは分厚い城壁と要塞を築くことで、街の防衛を固めて独自の共和制を長年の間守り続けることができました。

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壊滅的打撃から、2度の復興を遂げたドゥブロヴニク旧市街

旧市街のオレンジ色の瓦屋根

17世紀になると、ドゥブロヴニクの街は大地震によって壊滅的な打撃を受けます。しかし、市民の努力により街は復興を遂げ再び活気を取り戻しました。その後、ドゥブロヴニクの街は数百年に渡り大切に守られてきました。

ところが、1991年のユーゴスラビアとの内戦によって街は再び破壊されます。歴史的な建造物の多くも傷を多い、1979年世界遺産に登録された旧市街は、ユネスコによって危機遺産のリストに登録されてしまいます。

内戦が終わり平和が戻ると、市民達はすぐに街の再建に取り組みました。

街の景観を正確に再現するため、建設や修復に使用する道具を再現する所から始めました。可能な限り同じ材料、同じ製法で復元を行いました。そして1998年になり、ついに市民の努力が実りました、ドゥブロヴニク旧市街は危機遺産リストから除外されたのです。

こうして、世界遺産の街「ドゥブロヴニク旧市街」は美しいその姿を現在にも留めています。