最後の晩餐(レオナルド作)を分かりやすく解説 – 人物配置、技法など

(公開:2021年7月10日)

レオナルド・ダヴィンチ作 最後の晩餐

本記事ではレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作の一つ「最後の晩餐」について徹底解説致します。作品紹介はもちろん、人物配置やレイアウト解説、作画技法、修復過程、見学情報まで幅広くご紹介致します。

最後の晩餐とは

最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)

レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」の基本情報について、Q &A形式でご紹介致します。

レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐とは?

新約聖書のエピソードの一つ「最後の晩餐」を題材に、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた巨大壁画です。絵画ではなく壁画です。最後の晩餐は芸術作品の題材としては非常にポピュラーで、多くの画家がこのテーマーを題材にした作品を残しています。その中でも、レオナルドの【最後の晩餐】が名実共に群を抜いた存在です。

いつ誰の依頼で描かれたのか?

【最後の晩餐】は、ミラノ公「ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称:イル・モーロ)」の依頼を受けた43才の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が、1495年から1498年にかけて製作したものです。この時のダ・ヴィンチはミラノ公お抱えの画家としてミラノ公国に滞在していました。

どこに描かれているのか?

イタリア ミラノにある「サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会(画像下)」に隣接する修道院の食堂の壁に描かれています。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の外観

何のために描かれたのか?

「サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会」に妻と共に埋葬される事を望んたミラノ公「イル・モーロ」が、自らが眠るに相応しい場所として教会を改修させ、その装飾の一環として【最後の晩餐】を描かせました。そして「食堂」に合った壁画のテーマとして新約聖書のエピソード【最後の晩餐】が選択されました。

壁画のサイズは?

大きさは、縦420 cm × 横910 cmと、かなり横長の作品です。

 

最後の晩餐の何がすごいの?

現存するレオナルドのわずか十数点の作品のうちで唯一の壁画と言うだけでも非常に貴重です。1980年には世界遺産にも登録されています。かつて絵画のモナリザは日本で展示された事がありましたが、壁画である最後の晩餐はミラノまで足を運ばなければ絶対に見る事ができません。

最後の晩餐の基本データー

最後の晩餐の基本情報を表にまとめると以下のとおりです。

製作者レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年1495年〜1498年
所在地イタリア ミラノ サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会の食堂内
作品形態・技法壁画、テンペラ技法
大きさ縦420 cm × 横910 cm
依頼主ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称:イル・モーロ)
その他世界文化遺産(1980年に登録)
公式HP(英語)https://cenacolovinciano.org/en/

最後の晩餐の場面解説

最後の晩餐 イエス・キリスト

前項でも触れましたが、【最後の晩餐】とは、イエス・キリストの生涯を記したキリスト教の正典「新約聖書」のエピソードの一つです。キリスト教の聖地とされるエルサレムが舞台となっています。

元々、エルサレムはユダヤ人の土地でしたが、ローマ帝国に支配を受け、ローマ属州の一つと言う位置付けでした。そんなローマ支配の中で、ユダヤ人の救世主として誕生したのがイエス・キリストです。

しかし、そのカリスマ性の高さや影響力を徐々に危険視され、ユダヤ人の高官やローマ兵から追われる身となっていました。

最後の晩餐は、その様な危機的状況の中で、「ペサハ(過越祭)」と呼ばれるユダヤ教の祝日に開かれたキリストと12使徒の晩餐会が舞台です。

最後の晩餐 キリストとユダ

▲ 最後の晩餐の模写(ジャンピエトリーノ作 1520年ころ)

それまで和やかな雰囲気だった晩餐会は、《この中に裏切り者がいる。私と同時に食べ物を鉢に浸した人物がその人だ》というキリストの発言で一変します。レオナルドの【最後の晩餐】では、その言葉を巡って12使徒が混乱、動揺、反応する様子が見事に表現されています。ご存じかと思いますが、イエスを裏切り、ローマ兵に居場所をリークしたのは12使徒の一人「イスカリオテのユダ」です。

【ユダは何故イエスを裏切ったのか】

何故ユダが裏切ったかについては、新約聖書の4つの福音書によって記述が若干異なっています。ユダの裏切り理由として、最も引用される「マタイの福音書」では、ユダは報酬として銀貨30枚を受け取りイエスを裏切ったとされています。この当時の銀貨30枚の価値は、通貨の種類にもよりますが、少なくとも1〜4ヶ月分の賃金に相当する大金だったそうです。

一方「ヨハネの福音書」ではユダが悪魔であったため、「ルカの福音書」ではユダにサタンが取り付いたため裏切ったと記されています。そして最後の「マルコの福音書」には、ユダはただ裏切ったとだけ記されています。

どの福音書にも共通しているのが、ユダは決してお金目的ではなかったと言う点です。確かに彼は銀貨30枚を受け取っていますが、イエスの居所を大祭司「カイアファ」にリークしただけで、決して自ら金銭を要求した訳ではありません。

裏切りの要因は、実際のイエス・キリストの人物像とユダ自身が理想とする力強い「救世主」のイメージに大きな差があり、徐々にそのギャップに失望していったためだと考えられています。金銭を求める様な人物であれば、イエスの弟子という苦難の道は最初から選ぶはずがないからです。裏切り行為を行う以前のユダは、一行の会計係を任されるなど弟子達の中でも信頼される存在でした。

晩餐時のイエスは、パンを裂き「これは私の体である」と言って与え、聖杯の葡萄酒を「これは多くの人たちのために流れる私の血、契約の血である。」と祈りながら弟子に手渡しました。

現在もキリスト教で行われている儀式「聖体拝領(せいたいはいりょ)」は、この最後の晩餐でのイエスの行為と言葉を記念して生まれたものです。信者は儀式の中で、司祭に与えられたパンと葡萄酒を口にします。

この様な経緯から、最後の晩餐では「パン」と「葡萄酒」が重要なモチーフになっており、どの画家が描く【最後の晩餐】にも、必ず「パン」「葡萄酒」が描かれています。

人物配置と作品構図

最後の晩餐 キリストとユダ

本作は極端な遠近法法で描かれており、部屋から壁の奥に向かって実際に広がっている様に見えます。ダ・ヴィンチはこの遠近法の構図を描くため、イエスのこめかみ付近に釘を打って中心点とし、そこを中心に直線をひきました。下写真の様なイメージです。参考までに、遠近法の中心点の釘の後は、修復の際に初めて発見されました。

最後の晩餐の中心点と放射線

絵画中央の「イエス・キリスト」は、わずかに口を開き「この中に裏切り者がいる」と発言しているのが分かります。この口の開きは、近年の修復で初めて明らかになった部分です。

最後の晩餐の修復過程

向かってイエスの左側の人物は、弟子の中でイエスに最も信頼されていたと言われる「ヨハネ」です。イエスに洗礼をほどこした「洗礼者ヨハネ」とよく混同されますが別人です。

最後の晩餐 - ヨハネとキリスト

ヨハネは、映画「ダ・ヴィンチコード」では「マグダラのマリア」であると言う面白い解釈をしていますが、これは明らかに物語を盛り上げるための創作です。

オリジナルの「最後の晩餐」の壁画 イエスとマグダラのマリア

この壁画には表現されていませんが、次の場面で、ヨハネがキリストの胸に寄り掛かりながら《裏切り者は誰でしょうか?》と尋ねます。そのため、ヨハネはキリストの胸に寄りかかる様に描かれるのが常ですが、レオナルドはキリストの孤独感を強調するため、敢えてキリストとヨハネの間に距離をおいています。

「ヨハネ」の横で身を引くような体勢で、右手に銀貨30枚の入った袋を握っている男が裏切り者の「ユダ」です。

最後の晩餐 - ユダとペテロ

最後の晩餐をテーマに絵画を描く場合、裏切り者の「ユダ」をどの様に表現するかが画家の腕の見せどころでした。《この中に裏切り者がいる。私と同時に食べ物を鉢に浸した人物がその人だ》という言葉どおりに、キリストと同じタイミングで鉢に食べ物を浸してしまう「ユダ」は、必ずキリストの近くに描く必要があります。

しかし、他の11使徒と裏切り者を同じ並びで描きたくないため、レオナルド以前の画家の【最後の晩餐】では、ユダをイエスの正面に置き、我々に背中を向けた状態で配置するのが基本でした。

下はその一例で、イタリアルネサンス期の画家「ドメニコ・ギルランダイオ」が1480年に手がけた「最後の晩餐」です。

最後の晩餐(ギルランダイオ作 1480年)

ドメニコ・ギルランダイオ作 最後の晩餐{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

唯一、こちらを背にして座っているのが「ユダ」で、そのやや斜向かいに光輪を背負った「キリスト」が描かれています。

上記の様にユダを背中向きに座らす以外では、円卓を囲む様に描く形も主流でした。なぜなら円卓にすれば、12使徒とユダを同列に並べなくてすむだけでなく、イエスの隣にユダを描かなくても、同じ鉢に手を伸ばす事が可能だからです。

最後の晩餐(ピエトロ・ロレンツェッティ作 1310〜1320年)

ピエトロ・ロレンツェッティ作 最後の晩餐{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

この時代の最後の晩餐の暗黙のルールとして、ユダとそれ以外の人物を頭上の光輪の有無で区別していました。作中で着席する12使徒のうち、1人だけ光輪のない人物が「ユダ(向かって左側)」です。キリストと同じ鉢に手が届く位置に配置されています。

17世紀後半のロシアを代表するイコン画家「シモン・フョードロヴィチ・ウシャコフ」が描いた「最後の晩餐」は、キリストとユダ、12使徒の書き分けがこれ以上にないほど明確です。

最後の晩餐(シモン・フョードロヴィチ・ウシャコフ作 1685年)

ピエトロ・ロレンツェッティ作 最後の晩餐{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

レオナルドも作品構想の段階では、「ユダ」だけを背中向きに描く構図を模索していた事が分かる習作(下絵)が残されています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 最後の晩餐の習作{{PD-US}} - image source by WIKIMEDIA

しかし、最終的にレオナルドは、これまでの常識を全て覆して【最後の晩餐】を描きました。キリストも含めて人物に光輪は一切描かず、大胆にも12使徒と同じ並びにユダを配置しました。

最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)

そして、その動きや表情、手に持つ小道具だけで「ユダ」や他の使徒を表現しました。これまでの固定観念を打破したこの構図は非常に斬新で、多くの人に衝撃を与えました。

オリジナルの「最後の晩餐」の壁画 ユダ

12使徒の中でユダと共に重要なのが、ユダの横で身を乗り出している「ペテロ」です。

「最後の晩餐」- ペテロ

ペテロは左手をヨハネの肩に置き《イエス様から何か聞いているなら教えてくれ》とでも言ってる様です。右手に持つナイフは、裏切り者に対する殺意を示していると言われています。

【聖ペテロとは】

ペテロは12使徒の中で最初にキリストに弟子入りした人物で、感情的で人間味溢れる人物として知られています。元々は漁師で、連日の不漁で頭を抱えていた時期に兄の「アンデレ」の紹介でキリストと出会いました。

そして、キリストの助言に従って漁に出ると、嘘の様な大漁で船の上に魚があふれました。この奇跡を目にした「ペテロ」はキリストに導かれる様に使徒となりました。

ペテロは「最後の晩餐」の際に、《あなたは三度私の事を知らないと言う》とイエスに予言され、その場では激しく否定したものの、後にローマ兵にキリストの事を尋ねられた際に、イエスの事を「知らない」と3度否認しました。この出来事は新約聖書の中でも重要なエピソードの一つ「ペテロの否認」として記されています。

イエスの死後、ペテロは自身の行いを悔やみ漁師に戻っていましたが、復活したキリストに伝道の使命を与えられ、キリスト教の伝道師として生涯に渡って活動しました。ペテロはキリスト教にとっても非常に重要な人物として、カトリックの総本山であるバチカン市国の「サン・ピエトロ大聖堂」に遺骸が納められています。

自らの胸に手を当てて「私が裏切り者でしょうか」とでも言っているかの様な身振りをしているのは「フィリポ」です。その向かって左手で緑色の服を着ているのが、ヨハネの兄「大ヤコブ」です。

「最後の晩餐」の壁画の一部分

この大ヤコブの表情を模索した事が伺えるダ・ヴィンチの習作が、ロンドンのウィンザー城王室図書館に残されています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの習作「最後の晩餐の大ヤコフ」

最後の晩餐の見学エリアには、人物の位置と名前を記したボードがありますので、絵を見ながら人物配置の確認が可能です。

最後の晩餐 人物の説明ボード

一応、人物名を左から記しますと「バルトロマイ」「小ヤコブ」「アンドレア

最後の晩餐の12使途「バルトロマイ」「小ヤコブ」「アンドレア」

ペトロ」「ユダ」「ヨハネ

最後の晩餐の12使途「ペトロ」「ユダ」「ヨハネ」

イエスキリスト」「トマス」「大ヤコブ」「フィリポ

最後の晩餐の12使途「イエスキリスト」「トマス」「大ヤコブ」「フィリポ」

マタイ」「タダイ」「シモン」の順で描かれています。

最後の晩餐の12使途「マタイ」「タダイ」「シモン」

ダ・ヴィンチは、最後の晩餐の12使徒の位置や動きを描くにあたって、書物などから彼らの心情を徹底的に研究し、構図を考えるためだけに数年間を費やしました。そのため、作中の登場人物の配置構図は念密に計算し尽くされています。

まず、12人の弟子達はイエスを中心に3人づつ4つのグループに分類する事ができ、人物群が形作る2つの弧が存在しています。

最後の晩餐の構図説明

人物個々はバラバラの動きをしていますが、全体としては調和の取れた絶妙のバランスで仕上げられています。

続いて絵画の中央に目を向けてみます。弟子の中で最も低い位置に描かれている裏切り者の「ユダ」の視線と、最も高い位置に描かれている「フィリポ」の視線を線で結ぶと、丁度イエスの目を通過する様に描かれています。

最後の晩餐の構図説明

この様に細部に渡って計算し尽くされたバランスの良い構図により、中央のイエスの孤立感が強調され、否が応でもそこに目が行く様に描かれています。

また、最後の晩餐の壁画は下から見上げて鑑賞する形になりますが、作中ではテーブルの上が見えています。これにより鑑賞者は、まるでその場にいる様な臨場感を感じる事ができます。

製作過程と作画技法

修復前の最後の晩餐

レオナルドは本作を描く前の構想だけで数年間を費やしています。教会の庭で思索にふけるレオナルドに対して、修道院長がいつ作品を描き始めるのか急かすほどでした。しかし、レオナルドにとっては、この書き出すまでの思索と構想の時間が非常に重要でした。

作業場となる食堂には足場だけが組まれ、キャンバスとなる壁面は白い状態のままでした。この間、修道士たちは食堂を使えず、やむ無く隣接する庭などで食事を取っていました。この状況に修道士たちが不満をもらしていた事は想像に難くありません。

まずレオナルドは、キリストの下書きから製作をスタートします。そして、日の出と共に作業を開始し食事も摂らずに1日中描き続ける日もあれば、筆をわずか数筆入れただけで作業を終了してしまう日もあったそうです。

また、ミラノ公の依頼で並行して「スフォルツァ騎馬像」の制作も手がけていた時期は、野外での作業となる騎馬像は午前中に、日中の日差しが厳しくなる時間帯は室内で最後の晩餐の作業を行っていたそうです。

この時のレオナルドの作業の様子は、修道長の甥で当時9歳だった「マッテオ・バンデッロ」が、作家となった後年に文章として残しています。

作画技法に関しては従来の「フレスコ技法」を用いず「テンペラ技法」を選択しました。

なぜなら、語源をフレッシュ(新鮮)とする「フレスコ技法」だと、壁に漆喰(しっくい)を塗ってから乾くまでに絵の具を塗る手早さが要求されるからです。書き直しを前提に作品を仕上げたかったレオナルドにこの技法は不向きで、書き損じた場合は、下地の漆喰から塗り直す必要がありました。

一方、レオナルドが選択した「テンペラ」は、卵の黄身を溶かして植物性油などを混ぜて作る塗料の事で、何度も手軽に書き直しができるというメリットがありました。この方法であれば、巨大な壁にでも、時間をかけて細部までじっくり仕上げる事ができました。

しかし、壁画を手掛ける最中で、テンペラ技法で作画した事が失敗であったとレオナルドは気がつきました。絵が描かれた食堂は厨房に近いため湿気も多く、湿気に弱いテンペラ技法の顔料は劣化も非常に早かったためです。

また、レオナルドはテンペラ絵の具の下に、三層の下地(ジェッソ、漆喰、にじみどめ)を塗っていましたが、それぞれの乾くタイミングや湿気の吸い方が異なっていたため、壁画にひびが入る大きな要因となりました。

筆の遅いレオナルドにとっては、これら全てが致命的で、制作の段階で何度も絵にヒビが入っている事に気がつき落胆しました。

彼がこの時点で絵画手法を変更するには既に手遅れでしたが、度重なる困難の末、何とか「最後の晩餐」は1498年に完成に至りました。

完成からわずか数年で「最後の晩餐」は徐々に痛みはじめますが、ダヴィンチは1度だけ塗り直し作業を行い、それ以後に手を加える事はありませんでした。

完成から約70年後に「最後の晩餐」を見た芸術家で美術史学者の「ジョルジュ・バザーリ」は『痛みがひどく、強い光のあたった汚れの様にしか見えなかった』と記しています。

完成から1世紀ほど後の17世紀初頭になると、既に人物の表情を見分ける事すら困難だったそうです。

最後の晩餐の修復

最後の晩餐 フィリポの修復過程

最後の晩餐の修復作業は、数世紀前の1726年頃から20世紀前半まで、複数回に渡り行われていましたが、それらの多くが逆に壁画を劣化されるものでした。

また、1652年には壁画のある食堂と厨房を繋ぐために、壁画の一部を扉に造り変えてしまいました。

この愚行により、テーブル中央下のキリストの足元の部分は完全に失われてしまいました。しかも、厨房と食堂が繋がった事で絵画の天敵である湿気が増加し、壁画の状態を更に悪化させる結果となりました。

壁画下部のドアは後に塞がれましたが、現在もその部分は黒く塗りつぶされたままです。

最後の晩餐下部のドア跡

最後の晩餐の悲劇は尚も続きます。1726年に修復を手掛けた画家の誤った画材選択により、オリジナル壁面の大部分をニスの層で覆ってしまいます。

1770年には、ジュゼッペ・マッツァがこのニスの層をナイフで削り取り、色彩が薄くなった部分を新たに塗り直すと言う無茶な修復を試みます。しかし、たまたま居合わせたイギリス人画家「ジェームス・ペリー」が修復の不適切さを指摘した事で、この修復作業は中止されました。

18世紀末にフランス軍がミラノを占領した際には、ナポレオン自身は最後の晩餐を称賛したものの、壁画のある食堂を兵士達が厩舎として利用してしまいます。兵士達は壁画に石や煉瓦を投げて遊び、最後の晩餐は劣化の一途を辿ります。

1943年の第二次世界大戦では、ドイツ軍の空襲により、食堂の天井と東側の壁が完全に崩壊します。

空襲後に壁が崩壊した食堂

爆撃を受けた際、修道士たちは壁画のある北と南の壁を土壌を積んで保護していました。

最後の晩餐を土壌を積んで保護

この事が幸いしたかは分かりませんが、奇跡的に「最後の晩餐」は焼失を免れました。しかし、大きなダメージを受けただけでなく、天井崩壊により半野ざらし状態となりました。

崩壊した壁が1946年に再建された後、イタリア画家「マウロ・ペッリッチョーリ(1947〜1954年まで修復担当)」が蝋抜きしたセラックをアルコールで薄めた染料で壁画を補強しますが、その当時の技術の限界もあり、目覚しい成果は得られませんでした。しかし、ようやくこの頃より、湿気、カビ、バクテリアの作用などが絵画劣化の主要因であると考えられ始めました。

1977年段階のイエス・キリストの顔部分を見ると、相当に劣化が進んでいます。

最後の晩餐の修復過程

最後の晩餐が、現在の状態まで回復できたのは、ミラノの絵画修復家「ピニン・ブランビッラ・バルチーロン(画像下)」の主導の下で、1979年から1999年まで20年かけて行われた大修復作業によるものです。

修復作業を行うピニン・ブランビッラ・バルチーロンさん

この大規模修復により、後年に無闇に加筆された部分は全てて取り除かれ、完成当初の美しい色合いをある程度取り戻す事に成功しました。

最後の晩餐 修復前後の比較

カラー写真同士ではないので色彩の比較はできませんが、修復以前の方は、向かって左側上部や、ヨハネや他の使徒の顔などが部分的に失われています。

残念ながら、この修復の功労者である「バルチーロンさん」は【最後の晩餐】の修復完了という偉業を残して、2020年12月12日に95歳でこの世を去りました。

現在の「最後の晩餐」は定期的にメンテナンスが行われているほか、劣化を防ぐ為に「ろ過システムによる空気の制御」や「環境状態の継続的な監視」など様々な予防措置が講じられています。最後の晩餐の見学人数が極端に制限されているのも、壁画を良好に保つための予防措置の一つです。

ルネット部分の装飾と対面の壁画について

本項では【最後の晩餐】の上部や側面のルネット部分に描かれている装飾と、対面に描かれている壁画「キリストの磔刑」について少しだけご紹介致します。

最後の晩餐上部の3つのルネット

まず、最後の晩餐の上部に目を向けて見ると、ルネット部分(半円部分)に、3つの紋章と植物(クワ)が描かれています。

最後の晩餐上部の3つのルネット

下に見える最後の晩餐の上部だけを見ると、奥に空間が広がっている様にみえますが実際は平面です。

中央のルネットは、ミラノ公「ルドヴィコ・スフォルツァ」と妻の「ベアトリーチェ・デステ」複合紋章です。

最後の晩餐上部中央のルネット

「ルドヴィコ・スフォルツァ」は、最後の晩餐の制作を依頼した人物で、レオナルドはスフォルツァ家への敬意のあかしとして紋章を描きました。

残りの2つ、向かって左側のルネットには、ミラノ公夫妻の長男「マッシミリアーノ・スフォルツァ」の紋章が、右側は、1495年に誕生した次男「フランチェスコ2世」の紋章が描かれています。

最後の晩餐上部中央のルネット

最後の晩餐に向かって左手側の壁に描かれている書きかけのルネットもダ・ヴィンチが手掛けたと考えられていますが、結論は出ていません。

最後の晩餐 西壁面のルネット

かつては右手側の壁の同じ位置にも、レオナルドによる装飾があったと考えられていますが、第二次世界大戦の爆撃で失われてしまいました。後に再建されたこの壁側に現在装飾はなく、この食堂への入口となっています。

最後の晩餐の見学エリア

また、意外と知られていませんが、最後の晩餐の反対側(南側)の壁にも壁画「キリストの磔刑」が描かれています。

最後の晩餐の見学スペースの景観

本作は、イタリアの画家「ジョヴァンニ・ドナート・ダ・モントルファノ」が1495年に手がけたもので、レオナルドが【最後の晩餐】に取り掛かる際には、完成直前の状態だったそうです。

ジョヴァンニ・ドナート・ダ・モントルファノ作「キリストの磔刑」

作中では、最後の晩餐と同様に新約聖書のエピソードの一つ「キリストの磔刑」が描かれています。背景にはエルサレムが描かれ、キリストや聖母マリア、マグダラのマリアなどに交じって、依頼主であるミラノ公「イル・モーロ」と彼の家族も描かれています。

レオナルドとは対照的に上部のルネット部分も壁画の一部として上手く活用していますが、最後の晩餐と共に、この食堂に描かれていなければ、広く世に知られる事はまず無かったとされる作品です。

最後の晩餐の見学について

「最後の晩餐」の見学情報をQ &A形式でご紹介致します。

最後の晩餐の見学は誰でも可能ですか?

はい、「最後の晩餐」の鑑賞は国籍を問わず個人でも可能です。

最後の晩餐は自由見学ですか?

はい、壁画のある食堂内では自由に見学が可能です。ただし、鑑賞時間は15分で完全入れ替え制となっています。

最後の晩餐の見学に予約は必要ですか?

はい、「最後の晩餐」の見学は「完全予約制」となっています。必ず事前にオンラインや電話などで予約が必要となります。現地オフィスでの予約も不可能ではありませんが、運が良くない限りは当日の入場は難しいです。最後の晩餐のチケット予約や見学方法については以下の記事で詳しく紹介しております。

最後の晩餐の観光情報

最後の晩餐の観光情報を表にまとめると以下のとおりです。

営業時間8時15分~18時45分(15分区切りの完全入れ替え制)
休館日毎週月曜日、1月1日、5月1日、12月25日は休館となります。
チケット料金15€(約1,950円)
見学方法自由見学・ツアー見学(共に可能)
見学時間15分間(完全入れ替え制)
予約方法オンライン、電話、現地予約
公式予約HP(英語)https://cenacolovinciano.vivaticket.it/index.php